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追善回向

〔題意〕

 諸宗の中に、追善廻向が行われ、また浄土真宗の聖教の中にもそのように受け取られ易いもの、あるいはこれを否定されたものもあるところから、浄土真宗では追善回向を用いない理由を究明し、年忌法要等の本来の意味を明らかにする。

〔出拠〕

『歎異抄』(真聖全二・七七六頁)

 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念佛まふしたることいまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり、いづれもいづれもこの順次生に佛になりてたすけさふらうべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはゞこそ、念佛を廻向して父母をもたすけさふらはめ。たゞ自力をすてゝ、いそぎさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと云云。
『行文類』 (真聖全二・三三頁)
 明。是非凡聖自力之行、故不回向之行也。大小聖人、重軽悪人、皆ジクヒトシクシテシテ選択大寶海念佛成佛
『正像末和讃』(真聖全二・五二〇頁)
  眞實信心の稱名は   弥陀廻向の法なれば    不廻向となづけてぞ  自力の稱念きらはるゝ
『帖外御文章』(真聖全五・三八〇頁)
 さればこれにつけても女人の身は、今、このあへなさ、あはれさをまことに善知識とおもひなして、不信心の人にはすみやかに無上菩提の信心をとりて、一佛浄土の来縁をむすばんとおもはん人には、今世・後世の往生極楽の得分ともなりはんべるものなり。
『蓮如上人御一代記聞書』(真聖全三・五七四頁)
 他宗には親のため、またなにのためなんどとて念佛をつかふなり。聖人の御一流には弥陀をたのむが念佛なり。そのうへの稱名は、何ともあれ、佛恩になるものなりと仰せられ候ふ云々。
 その他、『拾遺蓮如上人御一代記聞書』などがある。

〔釈名〕

 「追善」とは、「追加善根」のこと。先亡のために財徳とか行徳を善根として、追修するという意味。
 「回向」とは、自己の修めた善根功徳を回転して、他の衆生に趣向することをいい、読経供養等の仏事を営むことをいう。

〔義相〕

 仏教一般で行われている追善回向については、『地蔵本願経』(大正蔵十三・七八四中)には「衆生在生中に善因を修せず多く罪を造れば、命終の後眷族が福利を作り、一切聖事七分の中、一を獲、六分の功徳は生者の自利となる」とか、『灌頂経』には「命終の人、中陰の中に在りて身、小児のごとし。罪福未だ定まらず。応に為に修福して、亡者の神をして十方無量の刹土に生ぜしめんと願ずれば、此の功徳を承けて必ず往生を得」と、追善が可能であるとして、殊勝の功徳あることが説かれている。しかし本来仏教は自因自果であり、他作自受は認めないのである。しかも三輪清浄でなければならない。
 『梵網経疏』(義寂)(大正蔵四〇・六七七上)には、「因果の道理より自作他受はなし。しかるに、彼此相縁互資なきに非ず」といって、自他円融の妙理に達すれば、追善の道理を生じ、これが無信の亡者には増上の縁となって、七分中の一分を獲、有信の者は全分を獲るという。
 ところが宗祖は、自身を内観され罪悪深重と告白され、自己の修める善もなく、それによってえられる功徳もなく、まして「小慈小悲もなき身」であると述懐されている。従って、自分が他人を直接救うということは不可能なのである。それが「父母孝養のためとて一返にても念仏もうしたることいまだ候はず」という人が人を救うことの限界を見定められた深い悲しみからの告白なのである。
 それでは、もはや先立った人への追慕とか、利他のはたらきは絶望なのであろうか。そうではない。阿弥陀如来は、このようなわれら衆生を一子のごとく憐念されて衆生の往生と仏の正覚を一体に成じてくだされたのである。
 そして、われらに浄土に往き生まれることも、浄土から還相して有縁を救うはたらきをすることもすべて回向してくだされるのである。その意味で、自分が他人を直接救うことなど思いもよらないことで自分が「救う」のではなく、先立った人もこの私も、阿弥陀如来に「救われる」身であることにめざめることが肝要なのである。
 念仏はわれら衆生を、すなわち私も先立った人も救おうとして成就してめぐまれた大悲回向の行なのである。したがって衆生からは不回向の行なのである。念仏は私の方から如来や先立った人にふりむけるものでは決してないのである。
 宗祖は『尊号真像銘文』に「即発願回向といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち安楽浄土に往生せんとおもうになるなり。また一切衆生にこの功徳をあたふるになるなり」と示され、また『正像末和讃』に「他力の信をえんひとは 佛恩報ぜんためにとて 如来二種の回向を 十方にひとしくひろむべし」とうたわれて、「教人信」もまた報恩のほかはないとされている。
 浄土真宗の聖教の中には追善回向とも受け取られやすいものもあるが、宗祖の立場は自身の罪悪性の深信にあり、そこからは追善回向を強く誠められている。と、同時に「無慚無愧のこの身にてまことのこゝろはなけれども、弥陀の回向の御名なれば功徳は十方にみちたまふ」とうたわれ、如来の回向に帰順することによって有情を利益することができることを告げられているのである。
 浄土真宗においての法要は先立った人への追慕を縁として死の痛みを通して、死の前には無力である自身と知らされ、仏法を聞く機縁とさせていただくことである。そのとき、先立った人は私に人生の深さをまのあたりに教えて下さった人として尊い姿を示されるのである。その意味で、この私が仏法に遇い、生死をつつんでくだされる阿弥陀如来の誓願に信順する身にさせていただくことが、先立った人を無駄にしないご縁なのである。それこそ上讃仏徳・下化衆生の報恩行として法事といわれ、仏事といわれる法要の意義なのである。

以 上


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