1. トップ(法座案内)
  2. 勉強部屋
  3. 安居会読判決
  4. 出世本懐

出世本懐

令和5年

【題意】

 如来の出世本懐は、ただ阿弥陀仏の本願を説くためである、と明示された祖意を窺う。

【出拠】

 「教文類」全体に「出世本懐」が顕かにされているが、それを端的に示されたのが「正信偶」の「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」である。

【釈名】

 「出世」とは、出現世間の意味であり、仏が迷いの世界、すなわち五濁悪世の娑婆世界に出現することをいう。「本懐」とは、根本の思い、すなわち、かねてから抱いている願い、本意という意味である。合釈すると、「出世本懐」とは、仏が五濁悪世の娑婆世界に出現された本意ということである。

【義相】

一、「教文類」の所顕

 「教文類」全体が宗祖の出世本懐論である。ここでは、釈尊が五濁悪世の娑婆世界に出現された本意を、御自釈および正依『大経』と異訳『大経』のみでほぼ顕されている。まず御自釈において、『大無量寿経』が真実教であると明示し、この経こそが釈尊の出世本懐経であることを、『大経』の大意として、「釈迦出興於世、光闡道教、欲拯群萌恵以真実之利。」(『聖典全書』二・九)と示される。『大経』発起序の文をほぼそのまま用いられての造文であるが、この文の意について、『一念多念文意』では、「『大経』(上) には、《如来所以興出於世、欲拯群萌、恵以真実之利》とのたまへり。この文のこゝろは、《如来》とまふすは諸仏をまふすなり。【中略】《真実之利》とまふすは弥陀の誓願をまふすなり。」(『聖典全書』二・六七三)とあり、釈尊のみならず諸仏の出世の本意が、弥陀の本願を説くことにあったことを明らかにされる。また、同じ『一念多念文意』では「弥陀選択の本願、十方諸仏の証誠、諸仏出世の素懐、恒沙如来の護念は、諸仏咨嗟の御ちかひをあらはさむとなり。」(『聖典全書』二・六七〇)と示され、釈尊の『大経』の説法も十方諸仏の護念も第十七願の具体相であると見ていかれる。さらに「教文類」の御自釈には、『大経』の宗体が、本願為宗、名号為体であることが示され、阿弥陀仏の本願、すなわち第十八願のいわれを説くことが肝要であり、名号南無阿弥陀仏が経の本体・本質であることを、宗祖は明らかにされている。この宗体論の後、『大無量寿経』こそが出世本懐経であることを『大経』の経文自体により証明していかれるが、具体的には発起序の五徳瑞現である。五徳瑞現とは、釈尊が『大無量寿経』をお説きになる前のお姿が五徳に安住し、いまだかつてない瑞相を顕されていることを阿難の問いを通して説示される箇所である。特に「住仏所住」(『聖典全書』二・一〇)は『如来会』の「入大寂定」(『聖典全書』一・二九六)にあたり、大寂定は大涅槃(『涅槃経』巻三〇、大正一二・五四五上)のことである。ただ今は、釈尊が阿弥陀仏の妙果を念ずる定、すなわち弥陀三昧に入られている融本の釈尊であることを示されている。五徳瑞現をもって『大経』を説法される釈尊が、普段と違う仏の威儀をもって示されているのである。さらに続く引文では、出世の本懐として、群萌を拯うために「真実之利」を恵もうとおもわれて、釈尊はこの娑婆世界に出現された、という先の御自釈の根拠の文が引かれている。この「真実之利」についても弥勒付属の文に「為得大利」(『聖典全書』一・六九)と説示されるように、南無阿弥陀仏の名号によって恵まれる利益である。

一、『六要鈔』説示の出世本懐論

 存覚上人は日蓮宗徒と対論される中で、日蓮宗徒が『法華経』こそが釈尊の出世本懐経であるとし『大経』等を爾前の教とみていたのに対して、上人は末法の時代に鈍根無智の凡夫を救済する教えに焦点を当て、『大経』こそが釈尊の出世本懐経であることを、与奪の論法を用いて説示される。すなわち、『六要鈔』「教文類釈」(『聖典全書』四・一〇二三) において、[教の権実]と[機の利鈍]との二つの観点から出世本懐を論じられるのである。「教の権実」は、聖道門内において、権とは権化方便教すなわち三乗法であり、実とは真実教すなわち一乗法を説く『法華経』を指す。天台宗の教判では、五姓各別に基づく三乗法は爾前の教すなわち方便教と見、一切皆成を説く『法華経』こそが真実教であり、釈尊の出世本懐経であるとする。これは、『法華経』「方便品」の「諸仏世尊、唯以一大事因縁故出現於世。」(大正九・七上)との経説から窺える。釈尊は、一仏乗の『法華経』を説いて一切皆成させるためにこの世界に出現された、と天台大師智は見て、『法華経』を釈尊の出世本懐経であるとされた。存覚上人は、聖道門中における教法の権実の点より見れば『法華経』が出世本懐経であることを諍わない。しかし、機の利鈍の点から見ると、利根の者は少なく鈍根無智の者は多いので、聖道教において出離できる者は少ない。浄土の教門は、凡夫救済に焦点が当てられた法門であることを善導大師の所説によりながら示し、諸仏の大悲は、ひとえに鈍根無智の凡夫たる苦者へと向けられるので、その点より窺えば釈尊の出世本懐経はこの『大経』であると存覚上人は示されるのである。


判決メニューへ
勉強部屋メニューへ
トップへ