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出世本懐

平成19年

【題意】

 「教文類」等に『大経』の出世本懐を論じられた祖意を明らかにする論題である。

【出拠】

『大経』の発起序(『真聖全』一−四頁)の  如来、無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。 という経文を親鸞聖人が「教文類」『真聖全』二−二頁)に出世の大事(本懐)を顕わされた言葉であるといわれたのが出世本懐論の根本出拠である。その他多くの文を挙げることができるが略する。

【釈名】

出世本懐の「出」というのは「出現」であり、「世」は世間のことで、今は迷いの境界である三界をさす。如来が、大悲を発して三界に出現されることをいう。  本懐の「本」とは「根本」の義、「懐」は「心に思うこと」「意趣」の意味で、根本意趣、本意のことである。つまり、釈尊のみならず三世の諸仏が、迷いの境界に出現される本懐・本意をいう。『大経』を説いて、誓願一仏乗を顕示する為であるということを「出世本懐」という。

【義相】

一、『大経』を出世本懐経と見る文証

@「恵以真実之利」の意味
 先ず、『大経』を出世本懐経とする文証は、「教文類」等に示されているように、「発起序」の文である。『大経』を説こうとされた釈尊は五徳の瑞相を示現し、その所以を尋ねた阿難尊者に、「如来、無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。」と答えられたお言葉によって『大経』が出世本懐の経であることを知ることができる。なお『尊号真像銘文』には、その如来を釈して「如来と申すは諸仏と申すなり」といわれているから、釈尊のみならず一切諸仏の出世の本意を開顕する経典と見られていたのである。

 ところでこの経を説いて衆生に与えようとされているのは、「真実之利」であると言われているが、それを『尊号真像銘文』には「仏の世に出でたまふゆゑは、弥陀の御ちかひを説きてよろづの衆生をたすけすくはんとおぼしめすとしるべし」といい、弥陀の本願を指しているといわれている。それは、『大経』所説の法義の肝要を付属する付属流通分の教説と対望されたからである。そこには、
 仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなわちこれ無上の功徳を具足するなり。
といわれていた。すなわち衆生は第十七願成就の諸仏讃嘆の名号、すなわち『大経』の説法を聞いて、第十八願成就の名号を信受奉行し、往生即成仏の大利を得ると言われているのである。それは序分に、「真実之利」を恵むといわれてものと首尾照応しているとしなければならない。

 その大利について、胎化段では、仏智不思議を疑って、諸行、もしくは自力念仏を行ずる疑心の善人は、胎生して「大利を失う」と誡め、仏智不思議の本願を信じて化生の利益を獲よと勧められていたものである。要するに「真実之利」とは、仏智不思議の本願を信受して獲る大利無上の功徳を指していたのである。こうして『大経』は、一切の衆生を平等に利益するために第十七願に乗じて本願の名号を説かれた経であって、釈迦、諸仏は、この経を説くことを出世の本懐とされていると親鸞聖人はいわれたのであった。

A光闡道教の意味
 ところで『大経』の出世本懐の文の中に、「光闡道教」という言葉があるが、『尊号真像銘文』末(広銘文、『真聖全』二‐六〇一頁)にも、『一念多念文意』にも、いずれも「光闡道教」を省略して「如来所為、興出於世、欲拯群萠、恵以真実之利」という文章にして出世本懐が論じられている。そこから見れば、「光闡道教」という言葉は、出世本懐の中には入らない言葉であるとみなければならない。そのことについて、『六要鈔』一(『真聖全』二‐二二一頁)には、
  「光闡」等とは、教法人を利するを名て道教と為す、理を証して物を益するを以て真実と為す。光は廣也、闡は暢也、恵は施也。諸師意今宗義に依に「道教」と言は、光く一代を指す、益五乗に亘る。「真実之利」とは、此の名号を指す。
と釈されている。まず光闡道教とは成仏道を説くことをいい、その教えを実践して自利利他することを真実之利というと見る諸師の釈を挙げ、後に真宗の宗義による釈として、光闡道教は聖道一代の教法を指し、「真実之利」とは、本願名号の法門、すなわち『大経』の法門を指すといわれている。道教を聖道教とする理由については明らかにされていないが、親鸞聖人が、光闡道教を省略して出世本懐を論じておられる意を承けて釈顕されたものにちがいない。

 先哲は、さらにその祖意を探って「欲」の字のあり場所から見込まれている。もし「光闡道教」も出世本懐をあらわしているとすれば、諸仏の能欲を顕わす「欲」の文字が所欲を顕わす「光闡道教」の前に置かれていなければならない。しかるに経文は「欲拯群萠恵以真実之利」といわれている。これによって諸仏の所欲は光闡道教にはなくて、「拯群萠恵以真実之利」にあったといわねばならないといわれている。

 なお先哲は『大経』には、「道教」の用例がこの他に三カ所(『真聖全』一‐三頁、二八頁、三四頁)あり、経末には法滅の時に滅する「経道」という言葉もあるが、何れも「三乗法」をあらわす言葉として用いられているという指摘もある。ただし、阿弥陀仏の浄土での説法を道教といわれた場合は、三乗であっても三一融即しているから三乗のままが一乗であるような教法で、穢土の隔歴不融の三乗とは違っているといわれている。いずれにせよ『大経』では道教を三乗教の意味で用いられているといわれている。

二、『大経』が出世本懐経と見る理証

 第一に、釈尊を初め、十方の諸仏が『大経』を説かれるのは、第十七願に応ずるからである。諸仏は自力成仏の法門をさしおいて、阿弥陀仏の本願他力の法門に帰し、本願を讃嘆することを本意とされているのである。

 第二に、『大経』上巻の最後に説かれた華光出仏の経意からいえば、十方諸仏は、浄土の蓮華のひかりが十方の世界にいたって、無数の仏陀となって、十方の衆生に仏道を説くといわれている。浄土から来現された諸仏の出世の本意が『大経』にあることはいうまでもない。

 第三には、親鸞聖人は、「諸経和讃」に、釈尊を久遠実成の阿弥陀仏の応化身と判定されている。それは釈尊のみならず、三世にわたる一切の諸仏に通ずることであるから、諸仏は本仏弥陀の本願を説くことを本懐とされていることになる。この説は『口伝鈔』の開出三身章において極成されていく。

三、『六要鈔』の「教の権実」と「機の利鈍」

 日蓮宗徒と対論して論破された存覚上人は、『六要鈔』一に、「教の権実」と「機の利鈍」に約して出世本懐を論じられている。「教の権実」の教とは教法のことであり、権実とは権仮方便教と真実教のことをいう。三乗は権、一乗は実という天台宗系の教判論によれば、一乗仏教を説くという『法華経』を出世本懐と見なして真実教とし、三乗法を説く爾前の諸教を権仮方便と判定し、非本懐と見ているのを挙げたものである。それゆえ「これ法華の意なり」といわれている。しかしこれは聖道門内の教判であって、聖道門外に独立している『大経』の法門とはかかわりのないことであった。何故ならば『大経』の法門は機の利鈍に依って説かれている教であって、教の権実によって判ずべきものではないからである。

 「機の利鈍」の、利根とは、仏法に鋭敏に反応し、深い理解能力を持つものをいい、鈍根とは仏教について鈍感で浅薄な理解能力しか持たず、自力修行に適していないものをいう。ところで一切衆生の中には、利根のものは極めて少なく、鈍根無智のものは圧倒的に多く、従って権教であれ、実教であれ、自力聖道の法門で救われる気はきわめて少なかった。それゆえ阿弥陀仏は、平等の大悲に催されて、一切の衆生を平等に救って涅槃の浄土へ往生させ成仏させようと誓願し、鈍根無智の凡夫の救いに焦点を合わせて、本願力廻向の本願の名号を成就されたのであった。こうして自力聖道門に比べて、阿弥陀仏の本願他力に救われるものは圧倒的に多いことは明かである。

 ところですべての如來のさとりの本質は自他一如の真如に契った悲智円満の心であるから、その本意は、善悪、賢愚の隔てなく、一切の衆生を平等に救って、涅槃の領域にいたらしめようという一点にあった。それゆえ阿弥陀仏の本願こそ一切諸仏の本意に契った法門であると言わねばならない。諸仏が第十七願に乗じて本願の名号を同心に咨嗟される所以である。それが一切の諸仏の本意に契った、出世本懐の法門だったからであると言うのが存覚上人の説であった。

 こうして存覚上人は巧みに「教の権実」という与門と、「機の利根」という奪門という、与奪法門を建てて、『大経』の出世本懐論を確立して行かれたのであった。

【結論】

 そもそも出世本懐の教であるということは、仏の随自意の教であるということを意味していた。仏の随自意の教を真実教と言い、随他意の教を方便教というのであるから、これによって『大経』が真実教であることが確定する。それゆえ「教文類」は、「しかればすなはち、これ真実の教を顕す明証なり」と引文を結ばれているのである。

 なお「化身土文類」には、『観経』と『小経』には隠顕があるが、その隠彰の実義から云えば、『観経』は釈迦微笑の素懐を彰わし、『小経』は無問自説という説教形式をもって、それぞれ『大経』と同じく本願他力の法義を説かれた出世本懐の教であり、真実教であるといわれている。

以 上


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