『小経』修因段について宗祖は准知隠顕の釈をなされた。隠顕釈による執持名号の釈意を明らかにする。
・『阿弥陀経』修因段
「聞説阿弥陀仏 執持名号 若一日(中略)若七日一心不乱」(『真聖全一、六九)等。・『本典』「化身土文類」本、
「経言執持亦言ー心 執言彰心堅牢而不移転也 持言名不散不失也 一之言者名無二之言也 心之言者名真実」(『同』二、一五七)等。・『略典』(『同』二、四五三)
「化身土文類」に「執は心堅牢にして移転せず、持は不散不失に名づく」とあり、『略文類』もほぼ同じ。狐山智円の『阿弥陀経義疏』には「執は執受、信力の故に執受にして心に在り。持は住持、念力の故に住持して忘れず」と釈す。
要するに、執持の「執」とは堅固如実に名号を領受し、「持」とは憶持して忘れず相続するの義である。「名号」は南無阿弥陀仏、本願成就の果名であり、所聞所信所称の法体をあらわす。
『小経』所説の執持名号を、宗祖は『本典』「化身土文類」真門釈に解釈されている。そこには、准知隠顕、嫌貶開示の釈がなされてある。よって、執持名号義をも隠・顕の二釈をもって解釈するのである。
准知隠顕とは、「『観経』に准知するに、この『経』にまた顕彰隠密の義あるべし」と示し、「顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む」等とし、「彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無礙の大信心海に帰せしめんと欲す」とお示しである。『観経』に隠顕釈がみられるように、『阿弥陀経』も『観経』に准知して、この修因段に隠顕釈を用いられる。直接的には『観経』の下三品の念仏と付属の持名に准知する。即ち『小経』の修因段に「不可以少善根」は『観経』の諸行を指し、『小経』は多善根多福徳の念仏を説くとするが、受持する機に熟未熟があり、熟機は直ちに他力仏願の念仏に入るが、未熟の機は諸行を廃しても自力心の機執をもって名号を修する故に自力称名となる。これが顕説の真門自力念仏である。『観経』の定散心に准知して顕説真門を見てゆくのである。『小経』に説く依正二報は真実であるが、この修因段のみ隠顕がみられるのは、多善根の念仏をすすめ、一日七日の念仏の功を策励する行業と、臨終来迎の益が説かれているからである。
嫌貶開示とは、顕説の所談で、一切諸行の少善根を嫌貶して善本徳本の真門を開示すと述べられてある。宗祖が真門念仏とみられる根拠は『小経』の『襄陽石碑経』の「多善根多功徳多福徳因縁」の文である。一切諸行少善根を往生不可と嫌貶し、真門念仏を開示するについて疑難が生じる。即ち、諸行少善の不可得生は、真実の報土に対していわれるならば、真門自力念仏も不可得生といわねばならない。もし真門念仏は化土得生というならば諸行もまた化土得生である。化土に対すれば諸行を不可得生とはいえないからである。要するに、諸行は真土にのぞめて不可得生と説かれたものである。ただし、真門は真土にのぞめて開示するのではなく、名号は元来、頓教であるが、自力定散の機は、多善根功徳と執じて自力策励する漸機である。機の側から自力称名としている。仏はこの機執に関せず、信疑廃立もいわずして来迎の益をあらわす。故に真門と判ずる。これを世尊の意として「真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む」と判ぜられたのである。
執持名号の意義について、多く孤山の釈を基本に釈してある。要するに、執持を心念ととれば心に名号を憶念して忘れず、称名ととれば誦念して忘れず、若一日等はその行時を示すと、善導大師の『法事讃』(「化身土文類」引文)、『往生礼讃』及び源空上人の『小経釈』等、総じて執持名号は称名行として釈されている。
宗祖は修因段に隠顕釈を用いて、執持名号にも隠顕の両釈がみられる。
顕説の釈意によれば、執持名号とは第二十願の植諸徳本と同じく、自力心をもって名号を称念する意である。「化身土文類」に引かれる元照師の『義疏』に「もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なり」と、自力の信は多善根多功徳の名号を憶持して忘れず、一日七日と策励していく相をいう。執持は口業に持(たも)つの義であり、顕説自力の信は起行の一心であって下の一心不乱と同じ。念々策励して、修する一心なるが故に「自利の一心を励まして難思往生を勧む」と示されたのである。
以 上