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正助二業

〔題意〕

 善導大師にはじまり、法然聖人、親鸞聖人と伝承されてきた浄土真宗の行業論において、正助二業論がしめる位置とその意義について論究する。

〔出拠〕

@『散善義』 就行立信釈
A『選択集』 二行章、三輩章、三選の文
B「化身上文類」 要門釈
C『愚禿鈔』下巻
その他

〔釈名と物体〕

 正助二業の正とは正定業の略称、助とは助業の略称である。正定業とは、正は正当、正直の義、定とは決定の義、業とは行業の義で、正定業とは正当なる決定往生の因となる行業ということである。しかし助に対して正と言う場合は、補佐に対して君、長、主の義になる。
 助とは扶助、資助、補佐の意味で、主なる者を助けて事業を成就させるはたらきを持つものをいう。したがって主であり、君長である称名を扶助し、資助する行業を助業という。しかし助を随伴の意味で解釈する人もある。もっとも助に随伴の義は直接には出てこないから、宗義によって与えた釈名といえよう。
 なお正定業の行体は、五正行中の第四の称名をいい、助業の行体は読誦、観察、礼拝、讃嘆供養の四行をいう。ただし讃嘆と供養を分ければ五行となる。

〔義相〕

@ 善導大師の正助二業説
 『散善義』の深心釈下に就行立信釈を施し、所信の行法を簡択して、一切の往生行を正行と雑行に分判し、雑行を捨てて正行に帰すべきことを明かし、さらに正行について正定業と助業とを分別して、所信の行業は称名一行であるといわれている。称名のみを正定業とするのはそれが第十八願所誓の行であり、決定往生の行業であるからである。
 なお正行とは正当な往生行ということで、阿弥陀仏とその浄土を所対とした本来の往生行をいい、雑行とは、本来は此土入聖の行であったのを往生行に転換したもので、非往生行を往生行とした、邪雑の行であるから雑行という。またその行体は諸善万行と言われるように雑多であり、また人天乗、三乗の行が雑った雑?の行であるから雑行といわれるのである。詳細は正雑二行論に譲る。なお就行立信釈では、正定業を主として正助二業を修する者には、親、近、憶念不断(無間)の徳があって、決定往生の果を得るが、雑行は疎、遠であり、憶念間断するから、決定業ではないとされている。
 『往生礼讃』前序には、安心と起行と作業という三門をもって浄土教の信行を顕し、六時礼讃といわれるような浄土教儀礼を教義的に位置付けられていた。安心門とは往生の因である信心を安立する法門ということで、『観経』の三心で示されている。その三心は深心に帰し、深心は煩悩具足の凡夫が本願の称名を決定往生の行と信ずるという二種深信としてあらわされているが、それは称名一行を正定業とする「散善義」の就行立信釈と同じであった。起行門とは安心門において確立した念仏往生の信心が相続して行を起こしていくありさまを示したもので、『浄土論』によって礼拝、讃嘆、観察、作願、回向の五念門として示される。しかし作願・観察二門の順序を変えて止観中心の行業体系と区別し、また讃嘆門下の称名を安心門にくりあげて広讃とし、五念門全体を念仏往生の信心の相続相としての浄土教儀礼を意味付けられたのであった。作業門とは、起行における能修の心得と修相を四修として示したものである。
 こうして安心門では念仏往生の正因決定を二種深信を中心に明かし、起行門と作業門とでは仏恩を念報し自行化他する相続行としての儀礼を中心に明かされていた。その両者の関係を『往生礼讃』「日中讃」には「五門相続して三因を助く」(『註釈版聖典』七祖篇・七〇四頁)といい、『法事讃』上には「三因・五念畢命を期となし、正助・四修すなはち刹那も間なく」(『同右』五〇九頁)等といわれているように両者は所助と能助のあり方をしていると見られていた。それと合わせると「散善義」の称名正定業は、安心門から立つ往生の業因をあらわす名であり、助業は浄土願生者として相応しい相続起行を顕わす宗教儀礼等の行業の実践を勧励する名目であったことがわかる。すなわち正定業と助業とは業因門における対目ではなかったことがわかる。ただし起行門では、正定業たる念仏を中心に五念門行が相続していくから、両者の間に主伴の関係が成立する。それを正業と助業といわれたのであろう。

A法然聖人の正助二業説
 法然聖人は、「散善義」の就行立信釈をうけて、二行章では正雑二行を廃立するために五番の得失を判定されている。その場合、五番の得を正助二業の得として顕わされているが、しかしそれは助業が持っていた得ではなくて称名の得を助業に及ぼしたものであった。それは不廻向廻向対を論証するのに六字釈を引用し、名号の徳義として廻向があるから、機の廻向は不用であるといわれていることで明らかである。また正定業と助業とでは、本願行と非本願行の違いがあると明言し、また三輩章では廃立・助正・傍正の二義の中では、善導大師によって廃立の一義によって業因を決着されていた。特に三選の文では、聖浄二門、正雑二行の取捨を明らかにし、最後に正助二業について、「なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし」といい、正助二業の選択を明かして「称名必得生、依仏本願故」と断定されていた。これによって、法然聖人が、選択本願によって往生の業因を顕わされる時には、雑行は勿論、助業も廃して、ただ称名一行による報土往生を主張されたことがわかる。それをまた「諸人伝説の詞」には「本願の念仏は、ひとりだちをせさせて助をささぬ也。助さす程の人は、極楽の辺地にむまる。」(『真宗聖教全書』四・六六二頁)といわれたのであった。

B親鸞聖人の正助二業説
 親鸞聖人は、法然聖人の意を受けて、『尊号真像銘文』に、三選の文の「なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし」を「正行を修せんと欲はば、正行・助業二つのなかに助業をさしおくべしとなり。選応専正定といふは、選びて正定の業をふたごころなく修すべしとなり」と釈されていた。「助業を傍らにせよ」を「さしおくべし」と言い替えることによって、助業と正定業の廃立の関係が決定的になる。また「二心なく」とは一心を顕わしているから、三選の文は、行は称名一行、信は無疑の一心という一行一心を顕わすと領解されていたことが分かる。
 『教行証文類』でもこの筆格は変わらない。真実の行信を顕わす「行文類」では、助正の分別はされず、専ら念仏一行についてその徳を讃嘆し一乗の行法を顕わし、「信文類」でも、助正の沙汰はされず、三心を一心に収めて機受の相を顕わされていた。真実の行信は、五正行でも助正でもなく、無疑の一心をもって、名号の一行を受行するという一行一心の法門として顕わされていたのである。
 それに対して雑行はもちろん五正行、助正二業、専雑二修等はすべて「化身上文類」で詳細に明かされていく。「化身上文類」要門釈に第十九願を釈して「この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。この要門より正・助・雑の三行を出せり」(『註釈版聖典』・三九二頁)といわれていた。「正助雑の三行」は要門から出た方便仮門の行であると言われるのである。それを釈して「正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり」といわれている。ここで除かれた「名号」とはいうまでもなく正定業である弘願他力の称名であって、それは要門から出た行ではなく選択本願から出た本願力廻向の行であったから除かれたのである。「行文類」では、五願開示の上で「然るにこの行は大悲の願より出でたり」と言い、第十七願によって回向された行であると言われていた。それを称名と言わずに敢えて名号と言われたのは、称名即名号であるような真実大行であったからである。「化身土文類」では、この後すぐに、「すでに真実行のなかに顕わしをはんぬ」といわれた横超の大行を指していた。
 それに対してここで「五種の正行」とは、五正行の一々を専修する自力の「五専」を指していたといわねばならない。また「助とは名号を除きて以外の五種これなり」といわれたのは、四種の助業に、機執によって万行随一の位に落在している要門位の称名を加えて、五正行全体を助業の分斉であるといわれたのである。それは『愚禿鈔』下に、弥陀念仏に定心念仏(観察)と散心念仏(称名)をわけ、正行の散行を読誦、礼拝、讃嘆、供養の四種に分類し、それらをまとめて、「上よりこのかた定散六種兼行するがゆゑに雑修といふ、これを助業と名づく。名づけて方便仮門となす。また浄土の要門と名づくるなり」(『註釈版聖典』・五三〇頁)といわれた釈と照応しているからである。それは助正兼行している五正行は、五行全体が助業並みの要門位の行になっているからである。この場合の助業は行体ではなく分斉を顕わしていた。
 なお親鸞聖人は、正定業と助業とに、本願行と非本願行との区別を付けずに並列して修しているありさまを助正兼行といい、雑修とも名付けられていた。「善導和讃」に
  助正ならべて修するをば すなはち雑修となづけたり
  一心をえざるひとなれば 仏恩報ずるこころなし
         (『註釈版聖典』・六九〇頁)
といわれたとおりである。
 こうして親鸞聖人が助正法門を論じられるのは方便の行信を簡別される時に限り、真実の行信を助正で論じられることはなかった。


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