浄土真宗は現生正定聚・彼土滅度の二益を語るのであるが、現生(此土)においては、滅度の果を一分たりとも証得するものでないことを明らかにする。
『教行信証』「証巻」には
「然るに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の羣萠、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚之数に入るなり。正定聚に住するが故に、必ず滅度に至る。」(真聖全二、一〇三)とあり、『六要鈔』には
「問ふ。定聚・滅度は是れ二益歟、又一益歟。答ふ。是れ二益也。定聚といふ者、是れ不退に当たる、滅度と言ふ者是れ涅槃を指す。」(同前三二一)とあり、また『御文章』には
「問ていはく、正定と滅度とは一益とこころうべきか、また二益とこころうべきや。答ていはく、一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりとこころうべきなり。されば二益なりとおもふべきものなり。」(真聖全三、四〇七)とある。
「正定」とは正定聚の略であって、正定聚とは邪定聚・不定聚に対し、滅度に至ることに正しく定まった聚類の義である。
「滅度」とは大涅槃であって、生死の迷いの因果を滅した仏果をいう。
経釈の上に彼土における正定聚が示されてあるのは、滅度の果を得た後の広門示現の相とする。
名号を領受することは、仏果を開くべき因徳が衆生に具すことであって、現生にあって滅度の果を一分たりとも証得することはできない。穢土であり、煩悩具足の凡夫であるかぎり、証果は彼土である。それ故「信巻」の便同弥勒釈には「臨終一念のタベ、大般涅槃を超証す。」(真聖全二、七九)とある。
現生十種の益の中に、現実に具体的に生きる意味が与えられている。
以 上