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信心正因

〔題意〕

 浄土真宗の法義において、如来回向の信心が往生成仏の正因である理由と正因といわれる徳義を明らかにし、称名は信相続の行であって正因ではないことを明らかにする。

〔出拠〕

 『正像末和讃』(真聖全二・五二ー頁)
  不思議の仏智を信ずるを 報土の因としたまへり
  信心の正因うることは  かたきがなかになをかたし
 「信文類」  (真聖全二・五九頁)
  涅槃真因唯以テス信心
 「信文類」  (真聖全二・六二頁)
  斯心者即如来大悲心ナルガ報土正定之因
 その他「正信偈」(真聖全二・四五頁)、『口伝鈔』(真聖全三・二八頁)、『御文章』(真聖全三・五〇七頁)などにある。

〔釈名〕

 信心とは、総じて本願の三心、別しては三心即一の信楽を指す。  「信文類」の字訓釈や信楽釈下に信楽の名義を釈して「疑蓋无キガ間雑信楽」といわれ、信楽を無疑心の義とされている。
 また、『唯信鈔文意』には「信はうたがひなきこころなり。(中略)本願他力をたのみて自力をはなれたるこれを唯信といふ」といわれ、無疑の信心を「たのむ」と和訓されている。また、「信文類」所引の二河讐には「今信シテ二尊之意」とあるから、信を信順・随順の義とみられていたことがわかる。さらに「信文類」の字訓釈の信楽の釈に「真也、実也」とあるように、真実の義ともされている。これをうけて『最要鈔』には「この信心をば、まことのこゝろとよむうへは、凡夫の迷心にあらず、またく仏心なり。この仏心を凡夫にさづけたまふとき信心といはるゝなり」といわれ、信心を「まことのこゝろ」とされている。
 要するに信心とは、その信相をいえば、疑いなく本願に随順する心であり、自力心をはなれて「本願他力をたのむ」心である。またその信体からいえば如来回向の信心であるから、仏心であり、「真実、まことのこゝろ」といわれるのである。その如来の回向の構造は名号による回向であり、信体はまた名号である。

 つぎに正因とは、正とは正当(しょうとう)の義である。当は契当の義で「かなう」ことである。また正定の義とみれば決定の意味になる。
 因とは、因種の義である。よって正因とは菩提、涅槃にかなった因種であり、また必ず往生成仏の当果も決定する「たね」という意味である。
 『尊号真像銘文』に「正定の因といふは、かならず无上涅槃のさとりをひらくたねとまふす也」といわれるとおりである。  よって、信心が正しく往生成仏の因種であることを信心正因という。

〔義相〕

@第十八願文及び成就文によって信心正因の義意をうかがう。
  往生の因を誓われた第十八願には「至心信楽欲生我国、乃至十念」と、三心即一の信心と乃至十念の称名が誓われている。しかし、称名には「乃至」の語がつけられている。乃至とは従少向多・従多向少の二義をもつ一多不定をあらわし、称名の数を限定しないことによって能称無功の他力の称名であることをあらわし、また信心から流出する信相続の易行を誓われたものである。しかも従多向少の極限は、信の一念にまでつづまる。成就文に信の一念として乃至十念を説かれたのはその道理を示されたものであり、『尊号真像銘文』に「下至といふは、十声にあまれるものも、聞名のものおも往生にもらさずきらはぬことをあらはしめすと也」といわれるのはその意である。
 乃至十念の称名が、信の一念にまでつづまるとすれば、往生の正因は、一声の称名をもまたず、信の一念に定まることになる。
 『御消息』に「信心の定まるとき往生また定まるなり」といわれているのは、その義である。
 このようにうかがうと、第十八願は正因法としての信心と 正因決定後の信相続の行とが誓われていることになる。これを信心正因・称名報恩の法義というのである。
 この義を明らかにされたのが第十八願成就文であり、名号を聞信する極促の一念に、即得往生住不退転の益がめぐまれると、信益同時の義が示され、唯信独達の義趣が明らかに述成されている。

Aなぜ信心が正因となるかという理由について
 弥陀の名号は衆生を往生成仏せしめる悲智万行の徳を円具した業因、すなわち正定業であって、これを信受したとき名号の全徳が衆生の上に具するからである。
 このように本願成就の名号を正しく領受して衆生の上で往生成仏の因願が成ずるのは、聞信一念のときであるから、衆生の上で正因決定を顕わすときは信心で語られねばならない。機法の分斉を混乱してはならない。
 また如実の称名は、名号全顕の行であるから、その体徳か らいえば正定業であるが、行者の意許(こころもち)からいえば、報恩行となるのである。

B信心の徳義について正因の義意をうかがう。
 「信文類」の信楽釈に信楽について「斯心者即如来大悲心ナルガ報土正定之因。」といわれているように、如来回向の信心は、如来の大智を全うじた大悲心であるから、報土の正定の因となるのである。大慈悲が仏道の正因であることは『論註』の性功徳釈をうけて「信文類」末の信心の転釈の結文に明示されたところである。
 また「信文類」をはじめ、諸処に信心は願作仏心・度衆生心のはたらきをもつ横超の大菩提心であり、また仏性でもあるから成仏の因種となることを釈顕されている。

C信心正因の所顕
 本願の名号を疑いなく信受した信心は、仏心であり、大菩提心であって仏因としての徳をもっている。その故に聞信の一念に仏因円満して正定案に入り、弥勒と同じ位にあらしめられ、往生即成仏の妙果をえしめられるという大信心の徳義が明らかになる。また信心が正因である故に、称名は正因ではなく信後の報恩行である。また化土の業因であるところの要真二門の自力の行信に簡んで、真実報土の真因は信心のほかにないという弘願真宗の法義が明らかになるのである。

以 上


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