『選択集』の信疑決判の釈に基づき、信疑によって、迷悟が分れることを明らかにする。
『選択集』三心章の私釈に
「次に深心とは、謂はく深信の心なり。当に知るべし。生死の家には疑を以て所止となし、涅槃の城には、信を以て能入と為す。故に今二種の信心を建立して、九品の往生を決定するものなり。」(真聖全一、九六七頁)とあり、また宗祖は『尊号真像銘文』(真聖全二、五七二頁・五九六頁)には、この文の解説がなされ、「正信偈」(同前、四六頁)、『高僧和讃』源空讃(同前、五一四頁)にはこの文の意が示されている。
「信」とは、第十八願の無疑の信心のことである。これは明日の天気を確信する未現前の不疑に対して、現前の仏勅に直接する無疑である。
「疑」とは、仏勅を拒絶する全てをいう。
「決判」とは、信疑のけじめを明らかにすることである。
『選択集』三心章の三心の中心である深心釈下において、迷悟を信疑によって決判し、以て念仏往生の奥義を開顕し、唯信正因の本意を示したもの。
『大経』下巻の胎化段(真聖全一、四三頁以下)において、仏智を疑惑して、「修諸功徳」、あるいは「修習善本」して願生する「不了仏智」の者は往生しても胎生して、大利は得られず、「明信仏智」の者のみが化生して大利を得ると述べている。
どちらも第十八願の信心を勧める点では同じであるが、信疑決判は悪機について因の上で語り、得失は、修善の機について、果の上で語っている。
本願疑惑が生死流転の因ではない。悪業・煩悩が因である。さらに信疑決判なることは、本願成就を前提としていることにある。恰も十人が十人この薬を飲めば助かるという病でも、自らの無知のため拒絶すると死亡するが如くである。
以 上