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信一念義

一、出拠

 『大経』下巻の本願成就文に「あらゆる衆生、その名号をききて、信心歓喜せんこと乃至一念せん」と説かれたものを、『本典』信巻末に信の一念として釈して「それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」といい、また「一念といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり」といわれたものを正しき出拠とする。また『略典』には「乃至一念といふは、これさらに観相・功徳・遍数等の一念をいふにはあらず。往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念といふなり」といい、加えて『一念多念文意』には「一念といふは、信心をうるときのきわまりをあらはすことばなり」と釈されている。

二、名 義

 「信」とは無疑の義で、如来の勅命を領受した疑蓋無雑の心をいう。すなわち本願の三心即一の信楽のことである。「一念」とは極促の時間を示すもので、信心獲得の時のきわまりを意味する。また、信相においてこれを論ずる場合は、「一念」は専一無二の心、すなわち信心に二心・疑惑のないことをいう。

三、義相

 宗祖において「信一念」について二義がある。出拠にあるように、信巻末の信一念釈に見られる「時剋の一念」と、同じく聞信一念釈の「信相の一念」である。

 宗祖が成就文の一念を信の一念と見られたのは、一つには成就文は諸仏所讃の名号を領受する機受を的示する経説だからであり、二つには異訳の『如来会』の該当文が「一念の浄信」と訳されていたからである。信一念釈によれば成就文の一念は「時剋の一念」であり、名号を聞いて信楽が開発する時剋の極促を示すものであった。それはまた浄土往生の真因が円満する信の一念であると説かれている。これを本願成就文に即して理解すると、「乃至一念」は上の「聞其名号信心歓喜」を受け、下の「即得往生住不退転」につなぐものであるから、信一念は信心開発の時と得益の同時性を顕すものとしなければならない。『一念多念文意』には「即得往生といふは、即はすなはちといふ。ときをへず、日をもへだてぬなり。(中略)真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざらなり」とあり、『唯信鈔文意』には「即得往生は、信心をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ」とある文の「即」の内容をも含むものとなるのである。行巻六字釈に「即の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり」といわれたものがそれである。この信益同時ということも信一念の所顕の法義の一つである。

 宗祖が本願成就文の一念を「信楽開発の時剋の極促」と釈されるのは、名号聞信によって起こる信心獲得について、時間の上から釈されたものであって、受法の初際であり、それ以上ちぢめることのできない時間の極限を意味する。従来この極促の促について、延促対の促か、奢促対の促かという論議がなされているが、それぞれに文証もあって、両者は必ずしも矛盾するものではない。「乃至一念」とは生涯相続する信心が最初に開発するということがらを表すのであるから、一念を名号領受の最初の時であるとする延促対の促と理解することは妥当である。しかし、その信心開発には時間の経過を要しないという意味において、奢促の促、すなわちきわめて迷い時間と理解してもさしつかえないであろう。『略典』に「往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念といふなり」といわれたものは延促対の促であり、西本願寺本の左訓に「トシ」といわれたのは奢促対の促の意味であったといえよう。

 そもそも信心の開発は如来回向のはたらきによるのであるから、そこに衆生の三業による造作の介入する余地はない。人間がつくりあげる自力の信心ならば、信の成立に必ず時の経過を必要とする。しかし、如来回向の名号を領受するのには時間の経過は要しない。現前の仏勅をはからいなく聞き受けている無疑信順の願力回向の信は、時間の経過を要せずに成就するということを「時剋の極促」あるいは「ときのきはまり」と表現されたのである。つまり、「時剋の極促」とか 「ときのきはまり」は、時間を超えた本願の法が、私という時間の領域にとどき、私のうえにはじめて信心が開発したという、そのできごとを表現するものなのである。

 ところで、『本典』証券に「往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり」とあり、また『略典』には「往相の心行を獲ればすなはち大乗正定の聚に住す」と ある。宗祖の語例によれば、心行の行は称名念仏をさすのがふつうであるから、入正定聚の利益を得る即の時、すなわち 信一念の時に称名念仏が存在するのかという疑問が生ずる。もしそうだとすれば、信一念に衆生の口業による造作が介入することになり、また信心に称名念仏を加えて往生の因となるがそうではない。この場合の心行とは信巻本の「真実の信心はかならず名号を具す」といわれたものと同意である。すなわち信は相続においてかならず称名念仏となってあらわれる信心であることを示されたものと理解すべきである。

 出拠に「信相の一念」の出典としてあげた「一念といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり」といわれたものは、一念を、無二心すなわち疑蓋無雑の信相をあらわした語と見られた釈である。これはあくまでも信心の純一性を示すものであって、時間の上での論議ではない。

 なお、信一念の時剋釈と信相釈の中では、時剋釈が経の当分の義であり、信相釈は宗義をあらわす義釈と見るべきである。それゆえ、『一念多念文意』には時剋釈のみをあげられたのである。

以 上


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