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指方立相

令和5年

〔題意〕

阿弥陀仏の浄土について、浄土三部経に方処を「西方」と示し、荘厳相をたてられた意義を窺う。

〔出拠〕

「定善義」第八、像観を正しき出拠とする。

〔釈名〕

「指方立相」とは、釈尊の立場より窺うと、「指方」は指示方処、「立相」は弁立相状である。合釈すれば「指方立相」とは、釈尊が阿弥陀仏の浄土の方処を、此土からみて西方と指示し、浄土の荘厳相を教示されたという意味になる。一方、阿弥陀仏の立場より窺うと、「指方」は指定方処、「立相」は建立相状である。よって、此土からみて西方に阿弥陀仏が四十八願所成の荘厳世界を建立されたことをいう。

〔義相〕

一、浄土三部経に「西方」と説く意義

『大経』には、阿難の問いに対して、釈尊は、「今已成仏現在西方。去此十万億刹。其仏世界名曰安楽。」(『聖典全書』一・三二)と、方角・距離・名前を説示されている。その浄土は七宝に彩られ、清浄に荘厳された勝れた世界である、とも示されている。また、『阿弥陀経』依正段にも同様の説示がある。『観経』では、阿弥陀仏の仏土を「西方極楽国土」(『聖典全書』一・八〇)と説き、浄土の具体的な荘厳相を観察する定善観法において説かれている。
 『安楽集』第六大門に、『大経』法蔵発願・弥陀果徳の取意の文によって、十方浄土より西方浄土の方が勝れていることを明かされる中、「於時法蔵菩薩願取西方成仏、今現在彼。」(『聖典全書』一・六三一)と、法蔵菩薩自らが西方を指定して浄土を建立されたと示される。さらに方処が「西」である意味を、その直後(『聖典全書』一・六三二)に、人間の住む閻浮提においては日の出づる場所、すなわち東を生処と、日の没する場所、すなわち西を死処と名づけるので、死後に生まれる場所に思いをはせるのに、西方が便宜であるからと述べられる。そして西方に面を向けて願生するのは、世間の礼儀にしたがうからであるとし、身心あい随う凡夫にとって、他方を向いてしまうと西方願生は困難となるからと示されている。このように『安楽集』には、阿弥陀仏が西方を願取された理由は、凡夫を済度される点にあることを明らかにされている。
 また、「定善義」において、善導大師は『観経』所説の日観を釈される中、「直指西方、簡余九域。」(『聖典全書』一・七二一)と説き、釈尊が西方を指示された理由を、衆生に観察対象を識り、心を住めさせるためであるとし、経説や師説をうけて、浄土は西方・日没処に十万億刹を超過して存在していることを説示される。そして『往生礼讃』前序にて、「又如観経云。仏勧坐観・礼念等、皆須面向西方者最勝。」(『聖典全書』一・九一五)と、西方浄土を願生することが最勝であると勧められる。さらに「西」についても、『礼讃』彦j礼讃に、「已成窮理聖 真有遍空威 在西時現小 但是暫随機」(『聖典全書』一・九四〇)と、阿弥陀仏が西方に浄土を建立されたのは、機すなわち救済の対象である衆生の認識にしたがってなされたのであり、衆生が摂取され、願生すべき世界の存在を表わしている。

一、浄土建立の意義(『大経』の説示)

 浄土建立の意義を『大経』の経説に窺うと、「讃仏偈」には、「一切恐懼 為作大安」(『聖典全書』一・二一)「国如泥? 而無等双」(『聖典全書』一・二二)と、法蔵菩薩は、恐れおののく者を安穏ならしめるために、最勝の仏国土を建立したいというお心が吐露されている。また、その直後に、「我当修行摂取仏国、清浄荘厳無量妙土。令我於世速成正覚、抜諸生死勤苦之本。」(同・二二)と、様々な生死勤苦の本を抱えて生きている衆生を済度するために、浄土を建立し成仏したい、という法蔵菩薩のお心を窺える。

一、辺即無辺、則即無相の浄土(『浄土論』『往生論註』の説示)

 浄土三部経の説示の多くは、西方に具体的な荘厳相をもつ浄土が説示されるが、一方で『大経』に「恢廓曠蕩不可限極。」(『聖典全書』一・三二)とも示されている。また天親菩薩の『浄土論』の願生偈には、「観彼世界相 勝過三界道 究竟如虚空 広大無辺際」(『聖典全書』一・四三三)とうたわれ、阿弥陀仏の浄土は迷いの世界を勝過した悟りの世界であり、特定の方処に限定されることのない辺際無き世界であるとも述べられている。『往生論註』(『聖典全書』一・四五八)には、「如虚空」「無辺際」を、浄土が無量の衆生を摂取することに限量・限界がないことと註釈されている。あらゆる来生者を摂めとるためには限量があってはならず、このような、辺即無辺の関係として浄土が説かれている。同じく『論註』性功徳釈(『聖典全書』一・四五八)では、法蔵菩薩の功徳が全性修起された世界である、と説示される。さらに浄入願心章(『聖典全書』一・五一六)に、浄土は三厳二十九種の具体的な荘厳相によって示される願心荘厳の世界、すなわち広相である一方、さとりの世界であるから、相対的な分別・差別を超えた真実の世界であることを一法句すなわち略体によって説示され、これらの関係を広略相入、二種法身をもって、由生由出・不一不異の関係で示されている。つまり、相対的な分別・差別を超えた唯一絶対の真実が具体的な荘厳相をもって展開し、衆生を摂取する浄土の構造を相即互入の関係にて示されるのである。ここに相即無相、無相即相の浄土のあり方を窺うことができる。

一、無相離念と立相住心(「定善義」の説示と、宗祖の観経隠顕釈)

「定善義」第八像観(『聖典全書』一・七四五)では「法界身」に関して、諸師の理解を、「唯識法身之観」や「自性清浄仏性観」として、無相離念を明かしたもの、すなわち理観であると解釈された。一方、善導大師は浄土の荘厳相を観察する定善観法を説かれる箇所について、『観経』は為凡の経であるから、無相離念の観法とみるのは誤りであり、経説通り事観と捉える。荘厳相をもって浄土を説示されなければ、凡夫には心も及ばないし、願生することさえできない。また、浄土はさとりの境界であり、無生界であるから、たとえ凡夫が実体的な願生によって往生したとしても、名号の力用によって無生の生たる往生を遂げられることが、『論註』の氷上燃火の譬え(『聖典全書』一・五〇六)に明示されている。よって、善導大師は仏語に随順し、具体的な荘厳相によって彩られた他方世界としての阿弥陀仏の浄土を、凡夫は願生し、称名念仏によって往生して、さとりをひらく教えこそが浄土教であることを、明らかにされたのである。

 最後に、宗祖が「化身土文類」(『聖典全書』二・一九六)に第八像観を引用された意を窺うと、八万四千の釈迦一代仏教より『観経』の経説を捉え、立相住心さえも難しい末代罪濁の凡夫には、聖道門は不可能な教えである意として、像観の文を転用されている。続く「門余」の釈において、聖道門の立場とは異なり、一切衆生を済度する本願一乗法を説き示されるのである。

以上


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