阿弥陀仏の浄土が西方にあると説かれた意義をうかがい、浄土の荘厳相をたてられた説意を明らかにする。
『定善義』(『真聖全』一・五一九頁)
「今此観門、等唯指方立相、住心而取境。総不明無相離念」
『仏説無量寿経』(『真聖全』一・一五頁)
「法蔵菩薩、今已成仏、現在西方。去此十万億刹。其仏世界、名曰安楽。」
その他
『仏説観無量寿経』
『仏説阿弥陀経』
『安楽集』
『法事讃』等がある。
釈尊に約していえば、「指」は指示、「方」は方処、「立」は弁立、「相」は相状をいい、釈尊が「西方」という方処を指して阿弥陀仏の浄土の荘厳相を教示されていることをいう。
また、阿弥陀仏に約すれば、「指」は指定、「方」は方処、「立」は建立、「相」は相状である。すなわち、阿弥陀仏は此土からいって西方という方処を指定されて浄土を建立されたことをいう。
そこで、『定善義』像観の「等唯指方立相、住心而取境。」の文は、釈尊に約して指方立相が語られており、『安楽集』に「法蔵菩薩願取西方一成仏今現在彼。」とあるのは、弥陀に約して語るものといえよう。
ここでいう「西方」とは、東西南北四維中の西方であって、方処を指すのである。阿弥陀仏の浄土は『仏説阿弥陀経』に「従是西方」とあるように此土を基点として指示したものであり、須弥山説によって論じられたものである。従って天動説による立場である。しかし、地動説を常識とする現代の人にとって、従是西方をいかに理解すべきであろうか。
これについて『安楽集』に「以閻浮提云日出処名生没処名死…中略…是故法蔵菩薩願成仏在西悲接衆生。」とあるように、日の没する処という地理的方処に即して、宗教の領域としての方処と領解すべきである。『往生礼讃』「前序」にある「須面向西方者最勝、如樹先傾倒必随曲、故必有事礙不及向西方、但作向西想亦得。」との文は、西方を宗教的に受けとめることを教示しているのである。
ところで『浄土論』には浄土について「究竟如虚空広大無辺際」とあり、『論註』には「此浄土随順法性不乖法本」と説かれている。これによると、阿弥陀仏の浄土は無相無辺と説くのである。それでは無相無辺と、西方の荘厳国土とはどのように理解すべきなのであろうか。云いかえれば、真如法性と願心荘厳の関係を、どう領解すべきかということである。これについて『論註』は真如法性を略とし、願心荘厳を広として広略相人の論理を展開している。その説明として、『論註』は略を法性法身とし、広を方便法身として、いわゆる由生由出、不一不異と示すのである。このことを思惟すると、浄土は無方即方、方即無方であり、無相即相、相即無相であるといわれるのである。
ただ、方即無方・相即無相の知見は、悟りの世界の所見である。そこでこの迷界の衆生に対して、方即無方の方と、相即無相の相で応じるのが指方立相の立場なのである。
従って、衆生においては西方浄土に願生するのであるが、如来の本願力により、無生の生の浄土、無量光明土へ証入せしめられるのである。この論理を言いあてているのが、いわゆる『論註』の氷上燃火の釈なのである。
『大経』には阿弥陀仏の浄土について「去此十万億刹」といわれ、『小経』には「過十万億仏土」とある。しかし『観経』には「去此不遠」と説かれている。
『観経』の「去此不遠」については、「序分義」に三義をあげて解釈されている。
@分斉不遠・・・無辺際の領域からみれば近い。
A一念即到・・・距離的には遠いと思うが、往生するときは本願力によるが故に一念に往生することができる。
B観念即現・・・浄土はそれを観ずる者の心相に常に顕現するから遠くない。
ちなみに、@は『大経』、『小経』により、Aは『観経』「散善義」により、Bは『観経』定善の立場よりの領解である。
「過十万億仏土」の「過」は超過(勝過)と経過の義がある。いずれも此土に対する彼土を指すことを留意すべきである。
阿弥陀仏の国土の表現については、経論釈に種々に説かれている。『大経』は「安楽」と、「安養」、『観経』・『小経』には「極楽」の語が多い。
ところで、宗祖の聖教の上にみえる、宗祖の言葉としては「極楽」の語は僅かである。そのことは「諸の楽のみを受く」とあるのを、自己の欲望を満たす世界への往生ととる誤解を誠められたことである。「真仏土巻」に、「謹按真仏土者仏者則是不可思議光如来 、土者亦是無量光明土也。」と説示されていることには重要な意義がある。
『大経』に法蔵菩薩の発願の心を述べて「令我於世速成正覚、抜諸生死勤苦之本」とあるが、その願心の具体的発動が浄土の建立となったのである。これについて『安楽集』には「為欲成就衆生故願取仏国」と述べ、また「法蔵菩薩願成仏在西悲接衆生。」といわれている。浄土建立の意義は、ひとえにあらゆる衆生を成仏せしめるためにほかならない。