『末灯紗』に、「選択本願は浄土真宗なり」といわれる選択本願の意義を明らかにする。
法然聖人の主著は選択本願念仏集と題され、同書の「本願章」(真聖全一、九四一頁)には、
選択者即是取捨義也。謂於二百一十億諸仏浄土中、捨人天之悪取人天之善、捨国土之醜取国土之好。と釈され、「慇懃付属章」(同前、九八八頁)にも選択本願の語が出る(原文省略)。また、『本典』「信巻」(真聖全二、四八)には、
選択とはすなはちこれ取捨の義なり。いはく二百一十億の諸仏の浄土のなかにおいて、人天の悪を捨て人天の善を取り、国土の醜を捨て国土の好を取るなり。
斯心即是出於念仏往生之願斯大願名選択本願と示されている。
この心すなはちこれ念仏往生の願より出でたり。この大願を選択本願と名づく
選択の語は、『大阿弥陀経』に出て、正依『大経』には出ないが、二百一十億の諸仏の刹土を覩見した後、法蔵菩薩が、
摂取二百一十億諸仏妙土清浄之行。と説かれるのを踏まえて、法然聖人は選択と摂取とを、言は異なるが意は同じであるとされる。選択の語には選取・選捨の両義があるのに対し、摂取の語は選取の義のみを示すとも考えられるが、選取とはそのまま余他の選捨であり、選択と摂取とは意は同じである。
二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取す。(真聖全一、七頁)
@ 法然聖人の『選択集』「本願章」(真聖全一、九四二頁・九四三頁)には、四十八願中の若干の順について、選取選捨が示されているが、第十八願に関して、
即今週捨前布施持戒乃至孝養父母等諸行、選取専称仏号。故云選択。と、往生行について、選び取られたものは称名念仏、選び捨てられたものは諸行と示されている。取捨は念仏・諸行と示されているが、念仏とは他力の念仏であり、真門自力念仏は選び捨てられた諸行に属する。
すなはちいま前の布施・持戒、乃至孝養父母等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す。ゆゑに選択といふ。
A 法蔵発願のおこりは、仏願の生起すなわち無有出縁の機の存在である。よって選択の理由も、清浄・真実無き衆生救済のためであることをまず踏まえなくてはならない。
清浄・真実無き衆生とは、自力をもっての出離生死が不可能な衆生であり、このような衆生を得脱せしめるために、機功を必要とする自力諸行は往生行として選び捨てられ、機功を必要としない他力念仏が選び取られたのである。
なお、法然聖人は、機功の要・不要の詳細を勝劣・難易で示されている。
B 『選択巣』本願章(同前、九四三頁〜九四五頁)には、称名念仏一行道取の理由として、諸行の劣・難に対して念仏の勝・易を示される。勝劣の比較とは、おのおの一隅を守るのみの諸行を劣とし、万徳の所帰たる念仏を勝とするものである。しかし、諸行の積累が念仏と価値を同ずるのではなく、果徳の全顕である念仏は、因人の行にすぎない諸行を本質的に超過している。
勝徳と易徳との関係は、勝徳は往因の円成をあらわし、易徳は機功の不要をあらわしている。すなわち、衆生にとって、機功を必要とする諸行は難であり、機功を要しない念仏こそが最も易である。機功を要しないとは、法体名号において往因が円成されているからであり、法体名号全顕の念仏は、因行に超過する最も勝れたものであるということができるのである。
以 上