1. トップ(法座案内)
  2. 勉強部屋
  3. 安居会読判決
  4. 往還分斉

往還分斉

〔題意〕

会読論題提要に示すごとくであるが、要をとっていえば、往相と還相の位置づけの区別を明確にするところにある。

〔出拠〕

『本典』「教文類」真宗大綱の文に

 謹案浄土真宗、有二種回向。一者往相、二者還相。
  つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。
とある。

〔釈名〕

「往」とは往相すなわち往生浄土の相、「還」とは還相すなわち遠来穢国の相、「分斉」とはそれぞれの意義の範囲、すなわち位置づけを意味する。まとめて言えば、「往還分斉」とは、真宗教義における往相(往生浄土の相)・還相(遠来穢国の相)それぞれの意義の範囲、またその位置づけという意味である。

〔義相〕

 往相すなわち往生浄土の意義は、無有出縁の凡夫が阿弥陀如来の本願力によって真実報土に往生し無上涅槃の極果を証することにある。聖道門の此土入聖に別した彼土得証の往生浄土門であるから、此土の生・彼土の生の区別は明確であり、此土の生の終わりが彼土の生の始まりと位置づけられる。

 ところで、信心生活や正定聚の自覚道を往生と位置づけ、現生において往生を語り、当来の往生を否定する説が存在する。宗祖は『一念多念証文』や『唯信鈔文意』において、本願成就文の「即得往生」を信一念即時の入正定聚と解釈されておられる。一方、宗祖が命終時において往生を語られる文は枚挙に遑がない。就中十月六日付真仏宛・二月廿五日付浄信宛のご消息には、信一念即時の現生の利益である入正定聚・諸仏護念を往生已前の利益と示されていること等により、宗祖においては当来の往生こそが本義であることは明確である。また、此士人聖の聖道門と別した彼土得証の法門である浄土門においては、此土・彼土の峻別こそが生命線であるということができる。

 還相すなわち還来穢国の意義は、本願力によって得証する無上涅槃に本来具せられている悲用である。

 この還相の利益についても現生で語る説が存在する。すなわち、現生は往生成仏への道という自利、当来は往生後の衆生教化という利他との区別は自利即利他・利他即自利という大乗菩薩道に反するものであるとして、浄土真宗が大乗の至極である以上自利の往相においてそのまま利他の還相を語らなくてはならないとするものである。しかし、還相とは「証文類」還相回向釈に引用される『浄土論』・『往生論註』には「遊戯神通至教化地(神通に遊戯して教化地に至る)」・「得奢摩他毘婆舎那方便力成就(奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て)」とあるように高度の救済能力の発揮であり、「浄土和讃」には「釈迦牟尼仏のごとくにて 利益衆生はきはもなし」と釈尊と同等の利他活動と位置づけられている。このような利他活動は凡夫には不可能であり、現生に還相を語ることができないのは明らかである。

 往生浄土の相である「往相」において、往生とは命終即時の事態であり、還来穢国の相である「還相」とは往生即成仏の証果にともなう自在の救済活動をいう。両者の位置づけを明確にして、宗祖教義に於いては現生の往生や信後の還相が成り立ちえないことを確認しておく。


判決メニューへ
勉強部屋メニューへ
トップへ