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念仏為本

令和5年

〔題意〕

 「念仏為本」という言葉は、『選択本願念仏集』劈頭標宗の文による。法然聖人が第十八願に立脚し開顕された念仏往生の本意と、宗祖の説示された信心正因とが矛盾しないこと、また能称の功をみる称名正因とも異なることを明らかにする。

〔出拠〕

 『選択本願念仏集』標宗の文を正しき出拠とする。

〔釈名〕

 「念仏」とは、様々な解釈が考えられるが、ただ今は称念仏名の義である。「為本」とは、「本」は根本、簡要の意味である。合釈すれば、「念仏為本」とは。「往生之業」を承けているので、浄土往生の業因は念仏以外の行ではなく、称名念仏こそが往生の根本簡要の行であり、正しき業因であるという意味である。

〔義相〕

一、『往生要集』と『選択本願念仏集』との念仏為本の相違

 「往生之業念仏為本」の語は、『要集』「大文第五助念方法」第七総結要行の釈下(『聖典全書』一・一一五二)にある。ここでは往生の要となる行業として念仏を含めて七法すなわち大菩提心・護三業・深信・至誠・常・念仏・随願が説かれる。護三業は止善、称念仏、すなわち深信・至誠・常の三事を具すもの、は行善であり、他の二法はこの二善を扶助する。この七法の中心が観称融会の念仏であると『要集』当面では示されている。法然聖人は『往生要集釈』(『聖典全書』六・八一)にて『要集』所説の念仏を広・略・要の三例に分けて解釈され、この総結要行に示される念仏は他の要行の助けをかりる称名念仏ととられて要例ではなく、すなわち助念仏としての略例とみておられる。

 『選択本願念仏集』は、はじめに題号が示され、直後に「南無阿弥陀仏 往生之業念仏為本」と名号が掲げられている。この標宗の文は、「一枚起請文」に「もろもろの智者達のさたし申さるゝ観念の念にも非ず。」等(『聖典全書』六・五)とあるように、観念等の念仏ではなく、名号南無阿弥陀仏を称える称名念仏が往生業の簡要であることを説かれている。法然聖人は善導大師の就行立信釈中の称名正定業を承けて、『選択本願念仏集』三選の文には「正定之業者即是称仏名。称名必得生。依仏本願故。」(『聖典全書』一・一三二四)と。第十八願に立脚して仏名を称することが浄土に往生する正定業であるとされ、この本願念仏を選択本願念仏と示す。阿弥陀如来が凡夫を真実報土に往生させるために諸行法を選び捨て、名号法を選び取られた、如来選択の行であるとして、劈頭の標宗の文において説示されている。このように聖人は、第十八願に立脚して念仏往生の法義をたてられるので、『要集』当面では他の法の助けをかりる助念仏の意である「往生之業念仏為本」の語を、『要集』序文(『聖典全書』一・一〇一三)の意より窺い、要例の意として『選択本願念仏集』の劈頭に割注として示されており、体は名号南無阿弥陀仏である。

「為本」と「為先」

 標宗の文には、「念仏為先」と「念仏為本」との二系統がある。法然聖人のご自筆の標宗の文が記された廬山寺蔵草稿本や当麻寺往生院蔵写本等は「念仏為先」となっている。一方、宗祖が付属された本は「化身土文類」後序に「〈選択本願念仏集〉内題字、并《南無阿弥陀仏 往生之業念仏為本》与〈釈綽空〉字、以空真筆、令書之。」(『聖典全書』二・二五四)とあるように。法然聖人にご自筆で「念仏為本」とお書きいただいている。「為先」について聖光房弁長は「第一之行」(『浄土宗全書』七・八四)と釈し、良忠は「非云前後、往生行中念仏最要。」(同七・一九〇)と釈されていることから、「為先」と「為本」とは同義である。

一、法然聖人の信心と念仏の関係性

行行相対〔諸行に対する称名「行中摂信」〕

 『選択本願念仏集』は、浄土宗一宗の独立を宣言された立教開宗の書である。各宗に帰属する寓宗としての浄土教ではなく、如来選択の本願念仏一行によって、凡夫が真実報土である浄土に往生する法門として開宗されたのである。聖人当時の仏教では凡夫入報は許されていなかった。まず、聖人は「二門章」において『安楽集』所説の聖浄二門判に基づき釈迦一代の仏教を聖道門と浄土門とに分け、末法の時代に機根の劣ったものの仏道は浄土三部経所説の浄土門のみであることを明らかにされる。通途の仏教では教・行・証の三法で各宗の教義をあらわされるが、法然浄土教の法義をこの三法で窺うと浄土三部経という教位に基づき、称名念仏一行という行によって、阿弥陀仏の浄土に往生するという証の法義となる。聖道諸宗の諸行による成仏に対し、念仏一行を行行相対して示されている。「二行章」においては、善導大師の「散善義」所説の就行立信釈等を承けて、諸行を廃捨して称名念仏こそが本願にかなった往生の正定業であることを明かし、さらに「本願章」において称名念仏が如来選択の本願の行であることを勝易の二徳より明らかにされている。この称名念仏は、「三心章」の。標章に「念仏行者必可具足三心之文」(『聖典全書』一・一二八六)とあり、また私釈に「三心者是行者至要也」(『聖典全書』一・一二九七)とも釈されるように、必ず三心を具足する信具の念仏であることがわかる。よって行行相対の念仏は、行中摂信された念仏なのである。

信心と念仏の関係性〔信疑決判の文や『黒谷上人語灯録』の文〕)

 「三心章」には、迷悟の岐路を本願の信疑をもって明らかにする信疑決判を示される。『語灯録』にも同様の説示があび、『往生大要抄』には、「かのくにゝむまるゝ事は、すべて行者の善悪をゑらばず、たゞほとけのちかひを信じ信ぜさるによる。」(『聖典全書』六・四一九)と、往生の可否は信か不信かによって分かれると示される。さらに同抄には信とは無疑心であるとも示されている。信心の重要性に関して、『七箇条の起請文』には「浄土宗の大事は三心の法門にある也。」(『聖典全書』六・四五四)とあり、念仏申す時の信心については、「阿弥陀ほとけの法蔵菩薩のむかし、五劫のあひだ、よる・ひる心をくだきて案じたてゝ、成就せさせ給ひたる本願の三心なれば、あだあだしくいふべき事にあらず。」(『聖典全書』六・四五八)と、阿弥陀仏が成就された本願の三心、つまり他力信心の義が示されている。そして『念仏往生要義抄』にも「たゞ他力の心に住して念佛申さば」(『聖典全書』六・四四五)と、他力の心に住した念仏が示されている。このように選択本願念仏とは信具の念仏である。『語灯録』には本願を信じて南無阿弥陀仏と申すべしとのお示しが多いことには注意が必要である。また、『念仏往生要義抄』には自力・他力が問題にされ、能称の功をみない他力の念仏であることがわかる。われら凡夫の往生の根拠は、阿弥陀仏の本願力にのみある。とくに念仏往生が誓われた第十八願の願心を疑いなく受け入れることが重要なのである。したがって法然聖人が説示された選択本願念仏は他力念仏であり、称功をつのる自力の称名念仏とは異なり、能称の功をみる称名正因とは相違する。

一、宗祖の「念仏為本」の相承と、信心正因

 まず、建長本(『尊号真像銘文』末)の標宗の文の釈には、「(南無阿弥陀仏往生之業念仏為本》といふは、安養浄刹の往生の正因は念仏を本とすとまふすみことなり。正因といふは、浄土へむまるゝたねとまふすなり。」(『聖典全書』ニ・六四〇)と、念仏が往生の正因であると法然聖人の法義がそのまま継承されている。これに対して正嘉本には、建長本の説示を受けながら「正因といふは、浄土にむまれて仏にかならずなるたねとまふすなり。」と、念仏は往生のみならず成仏の正因であることも明示して宗祖義が開顕されていることがわかる。また正嘉本の信疑決判の釈でも、「信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。」(『聖典全書』二・六四三)と、法然聖人が迷悟の岐路を本願の信疑をもって示された信疑決判や、念仏の自力・他力の分かれ目を信によって顕示された法義を承け、宗祖はそれを他力廻向の視点より捉え直し、信心こそが正しく涅槃の真因である、つまり信心が正因であることを明らかにされたのである。したがって、念仏為本と信心正因とは矛盾するものでも相違するものでもない。


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