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念仏為本

平成18年

〔題意〕

法然上人は往生之業念仏為本と標示し、第十八願を念仏往生の願と示された。宗祖もその法義を継承された。ここに念仏往生の本義をうかがい、さらに、信心正因と矛盾せず、称名正因と異なる義を明らかにする。

〔出拠〕

『選択集』標宗の文

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」、
『往生要集』(『真聖全』一、八四七)「助念方法」総結要行の文、
『本典』「行文類」に、『選択集』標宗の文と総結三選の文を引いて、『選択集』全体を総括して念仏為本の法義を示される。
 『銘文』広(『真聖全』二、五九五)同略(『同』ニ、五七一)に『選択集』標宗の文を釈して
「〈南無阿弥陀仏往生之業念仏為本〉といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり」と。
『唯信鈔文意』(『同』二、六二五)には
「すでに称名の本願は選択の正因たること悲願にあらはれたり」
等と。
その他、「念仏為本」に関する類文は多い。

〔釈名〕

 「念仏」とは称念仏名である。一般に念仏といえば、観念仏体、憶念仏徳、実相念仏等、種々あるが、今は、弥陀の仏名を称念する口称である。
「為本」とは、「本」は根本、宗本の義である。余なしという意味で、往生の因は念仏を根本として余他をみない意である。異本に「念仏為先」とあるが、同義である。

〔義相〕

一、『選択集』と『往生要集』の念仏為本

「往生之業念仏為本」は、もと『往生要集』中末、第五「助念方法」総結要行の文である。『選択集』標宗の文はこの文に拠るが、『要集』と文は同じであっても、義は少しく異なる。『往生要集』の念仏は、一往、要門中の念仏とみられる。法然上人は『要集』を三例をもって見、結論として弘願他力念仏と同じとした。宗祖は『末灯鈔』に「恵心院の和尚は、『往生要集』には、本願の念仏を信楽するありさまをあらはせるには、〈行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず〉と仰せられたり」とある。
 さて、『選択集』の語は、まず「南無阿弥陀仏」と名号をかかげ、次に「往生之業念仏為本」の八字を挙げてある。六字の標挙は、第十八願、選択本願の念仏であり、称名正定業である。法然上人は念仏一行によって万人が往生をとげる浄土教を独立された。その根拠は善導大師の称名正定業義であり、選択本願の念仏と開顕されたのである。即ち「本願章」には一切の諸行を選捨し、念仏一行を選取されたのは凡夫悪人を救う如来大悲の選択にもとづくものであった。念仏一行こそ、如来随自意の行法と判じ、さらに勝劣難易の分別をして、念仏は勝易の二徳を具すると示された。更に称名正定業を明かし、善導大師の六字釈を引証し、他力による念仏義を開顕され、極悪最下の人のために極善最上の法たる念仏は、他力念仏義であることを顕された。それは三心具足の念仏であり、信疑決判して、信心をもって能入すと示された。念仏は名号を信受して称える他力の念仏である義を明確にされたのである。

二、念仏の物体について

 念仏為本という念仏の物体は名号である。念仏とは三心より出でた他力の称名である。法然上人の念仏為本の念仏は、衆生の能称の功をみない、名号の徳用から称名正定業という、称即名の他力行である。
 宗祖は、「行文類」に『択集』の標宗と総結三選の文を引用して、『選択集』の始終全体を総括して引用されている。法然上人の念仏往生義をそのまま継承して、第十八願名を「念仏往生之願」「選択本願」と出され、随処にその言を用いられている。ただ宗祖は法然上人の一願建立の立場に対して五願開示して機法の分斉を鮮明にされ、称名行を第十七願所誓の大行として法体名号の活動相と展開されている。
 衆生の称名はその体名号であって、名号は名声と立誓なされた通り、称となる徳をもっている。それは名号に内蔵する讃嘆門功徳である。従って、衆生の能称のまま、仏の法体名号の活動相である。これは能称所称不二の故に宗祖は「念仏則是南無阿弥陀仏」と「行文類」に示されている。称名は名号を領受した信心より露現するものであって「真実信心必具名号」と釈されるものである。声でない名号はないのである。即ち他力の称名は信心より必然的に露現したものである。

三、称名正因と称名正定業

 次に善導・法然二師は称名正定業を立てて、念仏往生の一義をもって勧化されたが、宗祖は、信心正因と示された。この称名正定業と信心正因の法義は、一見相違するようである。称名正定業は、称名の体、名号の立場から業因を定め、信心正因は往生成仏の因が決定するのは、信受機受であると顕すのである。この場合は、称名は信後相続の作業となるから、信心正因称名報恩の法門となる。したがって称名について行徳の側から正定業を成じ、機の用心からいえば報恩となる。元祖と宗祖の間に化風が異なるのであって、元祖は、外聖道門の諸行に対して行々相対し、浄土門の行体を確定されたのであるが、宗祖は、対内的に浄土門内に機受の極要を示して、信心正因の義を確立されるのである。両者は矛盾せず、当然両立する。宗祖にあっても、対外的に聖道諸行に比対するときは、念仏諸善比校対論と、念仏往生の法門をかかげられている。
 更に称名正定業義が称名正因義にならないかとの疑問がある。
 称名正因とは、第二十願真門自力念仏の立場であって、衆生の能称の功を積集して、己が功徳として、浄土へ回向願求する自力の念仏である。自力心を以て能称の功をつのり、己が善根と励んで往生の業因に擬する自力念仏が称名正因説である。これに対して称名正定業は、所称の名号の徳用から正決定の業因とする。所謂、称名即名号という他力念仏を顕すのであるから、混同してはならない。
 『銘文』には「安養浄土の往生の正因は念仏を本とす」と仰せられているが、この文は『選択集』標宗の文を釈されたものであって、南無阿弥陀仏の標挙をかかげて法体名号にもとづく念仏一行を往生の因とされたものである。正因とあっても、衆生の能称の功徳を因とされたものでない。
 また念仏往生の法目は、宗祖も用いられているが、元祖の念仏往生は第十八願の「乃至十念」をもって一願建立の立場から行々相対して浄土の行体を発揚されたものであるが、宗祖の場合は、同じ念仏往生の宗義であっても五願開示して法体と機受を分明にされ、念仏即ち衆生の称名を法体にまきあげて、第十七願所誓の我名を大行と示されたのである。
 「行文類」には大行を出体して「称無礙光如来名」として衆生の称名となる名号即ち名声という義を大行として開顕されたのである。即ち能称所称不二の大行である。故に念仏往生といっても称即名に帰し法体名号の活動相を衆生の称名のところで顕されたものである。したがって念仏と云うときは、法体・信心・称名の三法相即の念仏である。

四、信心正因と念仏為本

 以上のごとく、念仏為本の念仏は、他力行としての正定業であり、衆生の能称の功をみるものではない。また、称名正定業義も、能称の功をつのって往生の業因に擬する称名正因説ではなく、信心正因の法義と相違するものではない。よって念仏為本は決して信心正因と矛盾するものではなく、往生の正因については、元祖も『選択集』の「三心章」に「生死之家以疑為所止涅槃之城以信為能入」と述べられるとおり、信疑をもって迷悟の岐路とされているのである。

以 上


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