光号因縁

〔題意〕

 両重因縁の解釈は、行信の分斉を決判して信心正因を弁立し、浄土真宗の法義を明確にする。

〔出拠〕

 「行文類」(真聖全二・三三頁)

トニ、无マシマサズパ徳号慈父、能生因闕カケナム。无マシマサズパ光明悲母、所生縁乖ソムキナン。能所因縁雖和合、非ズバ信心業識、无コト光明土。眞實信業識、斯コレ則為内因。光明名父母、斯外縁。内外因縁和合シテ、得報土眞身。故宗師ヘリ「以光明名号化十方、但使信心求念」。又云ヘリ「念佛成佛是眞宗、又云ルヲ「眞宗・カタシト一レ遇」也。可シト
「序分義」  (真聖全一・四八五頁)
  若クンバ父者、能生之因即ケナン。若クンバ母者、所生之縁即キナン。若二人倶クンバ、即ハン託生之地。 要父母縁具シテ受身之處。既スルニケント、以業識内因、以父母精血外縁。因縁和合スルガ
『往生礼讃』 (真聖全一・六五一頁)
「以光明名号號シ下フ十方。但使ムレバ信心ヲシテ求念、上盡一形下至ルマデ十聲一聲等、以佛願力往生
 その他「正信偈」『浄土文類聚鈔』『執持鈔』『口伝鈔』などにある。

〔釈名〕

 「光」は光明であり、「号」は名号である。「因縁」とは因縁和合ということである。
 そこで、この因縁和合について、「行文類」にあるように初重に徳号の慈父の能生の因と光明の悲母の所生の縁によって報土の真身を得証する因縁を説き、次の後重には真実信心の業識の内因と光明・名号の外縁との因縁を出して、機受の要を明らかにするものである。

〔義相〕

 光号因縁の解釈は、喩えを序分義の「孝養父母」の釈により、その釈義は『礼讃』の「以光明名号號シ下フ十方。但使ムレバ信心ヲシテ求念」等の義をうけてこれを顕わされるものである。
 この釈は両重因縁ともいわれるように、「徳号慈父」より「所生縁乖ソムキナン」までを初重とし、「能所因縁雖和合、非ズバ信心業識」以下を後重とする。
 初重についてみると、名号を父とし、光明を母とする。それは『礼讃』前序の光明・名号を「序分義」に示す父と母とにたとえられたもので喩えの父と母とは別体であるが、喩えられた法の名号と光明とは別のものではなく名体不二である。従って、名号を能生の因とし、光明を所生の縁とするといっても、この能生・所生は能為・所為とか能化・所化といわれるような能動と受身の関係を示すものではなく、「正信偈」の能入・所止の用例のように能生の意味である。また、因と縁とを分けて示されてあっても、親因・疎縁の別をいうのではない。そこで初重は光明・名号の法体を能生の因縁とするのである。
 さて、この名号と光明の父母によって生まれる子に喩えられるものは何であるかといえば、それは後重に示されるものと同じく報土の真身である。
 ところで初重を獲信の因縁、後重を得生の因縁とみるならば、「序分義」の釈が同一の果を得るについて両重を示されているものと合わないし、宗祖の釈の上で、次の後重のはじめに、「能所因縁雖和合」といわれた文を領解することはできない。すなわち、初重を獲信の因縁とみるならば、能所の因縁が和合すれば信心を生ずることになり、それでは「能所の因縁和合すべしといえども、信心の業識に非ずは」などということはいえないからである。
 つまり、初重も後重と同じく報土得証について因縁を示されたもので、初重は光明・名号の法体がよく衆生を得果せしめる因法であることを示されたものとうかがう。
 次に後重は初重の義をうけて、法体に衆生を得果せしめる力用があるけれども、これを信受しなければ、衆生は往生の果を得られないことを明らかにされる。「眞實信業識、斯コレ則為内因」と示されるのがその意味である。
 「眞實信業識」というのは、信心が業識であるということではない。今は名号と光明を父母にたとえ、信心を業識にたとえられたのである。また、後重に光明・名号を共に外縁とされることも「序分義」の文によるのであって、要は信心が正因であることを明らかにされるのである。なお、喩えの「業識」と「父母」とは別体で、因と縁との関係であるが、今の法の上では、光明・名号の法体が衆生心中に満入したのが信心である。
 この両重因縁の釈は、「行文類」にあっては、初重において、法体名号が衆生得果の業因である名号独用の義を示し、後重にはその法体名号もこれを信受しなければ往生できぬという唯信正因を顕わして、名号業因・信心正因の関係を明らかにされたのである。行信の関係については、近くはこの両重因縁釈の行信の利益が明かされるところに「獲ウレ眞實行信」、「帰スレ斯行信」などとあり、すでに総序の文に「圓融至徳嘉号正智、難信金剛信楽エシムル眞理也」などと示されているところである。
 今はその行信開合の関係を明らかにして、次に「信文類」を別開する伏線となる重要な釈義である。

以 上


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