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機法一体

平成21年

〔題意〕

『御文章』に用いられている機法一体の意味を明らかにする。衆生の信心は如来のはたらきを領受したものであり、衆生の信心(機)と衆生を救う力・はたらき(法)とが別々のものではないことを明らかにする。

〔出拠〕

『御文章』三帖目第七通・四帖目第八通・同第十一通・同第十四通等に機法一体の語が出る。

〔釈名〕

 「機」とは南無帰命の信心をいい、「法」とは阿弥陀仏の救いの法、すなわち摂取不捨の願力をいう。「一体」とは体は一つということである。つまり機法一体とは、衆生の信心(機)と阿弥陀如来の衆生救済の力用(法)とは、別々のものではなく、一つのものであることを意味している。
 同じく機法の語を用いる「二種深信」において、「法」とは、機法一体の法と同じく摂受衆生の法を指しているが、「機」は、救われるべき衆生、性得の機、すなわち無有出緑の機を指している。よって、二種深信の機の語義は、機法一体の機の語義と異なっている。

〔義相〕

@機法一体の用例(『願願鈔』・『六要鈔』・『存覚法語』・『安心決定鈔』等)

 機法一体という語は、衆生の何か(機)と如来の何か(法)とが一つであることを意味する語であり、種々の意味で用いられている。
(一)覚如上人の機法一体
 覚如上人の機法一体は、『願願鈔』に見られるが、『改邪鈔』第十九条の説意からすれば、仏心と凡心との一体の意味で解することができる。
(二)『安心決定鈔』に見られる機法一体
 『安心決定鈔』に見られる機法一体には、三種が見られる。すなわち、往生正覚一体の機法一体と、色心功徳の機法一体と、彼此三業不離一体の機法一体とである。
 まず、「往生正覚一体の機法一体」とは、第十八願の「若不生者不取正覚」の誓いにより、衆生の往生(機)と阿弥陀如来の正覚(法)とが一つであるという意味で機法一体という。
 次に、「色心功徳の機法一体」とは、機とは衆生の身心をさし、法とは仏の果体の功徳のことである。この仏の功徳が衆生の身心に入り満ち、ひとつになっている状態、つまり如来の功徳と凡心とが一体になっている状態をさして機法一体という。『御文章』の仏凡一体と同一の意味である。
 最後に、「彼此三業不離一体の機法一体」とは、阿弥陀如来の身口意の三業によって成就された名号が衆生に領受されるのであるから、衆生の称名(口業)・礼拝(身業)・憶念(意業)は、阿弥陀仏と離れないという意味で機法一体という。
(三)存覚上人の機法一体
  存覚上人の機法一体は、『存覚法語』と『六要鈔』とに見られる。
 『存覚法語』の機法一体は、『安心決定鈔』と同じく往生正覚機法一体であるが、『存覚法語』では、浄土往生後の仏凡の寿命の一体と転用されている。
 『六要鈔』に見られる機法一体は、基本的には、第十八願の信(機)と第十七願の行(法)とが不離であることを機法一体と示されている。存覚上人においては、第十七願の行とは念仏であるから、信心と念仏との不離一体を機法一体と示されたと見ることができる。

A機法一体の釈相

 『御文章』における機法一体は、まず南無の二字と阿弥陀仏の四字とに分釈されている。本来、南無阿弥陀仏の六字全体がそのまま衆生の信心(機)であり、また南無阿弥陀仏の六字全体がそのまま阿弥陀如来の救済の力用(法)であるが、「南無」の語は、もともと衆生の信をあらわす語と見ることができ、「阿弥陀仏」の語は、衆生救済の仏を意味しているので、拠勝為論して二字と四字とに分釈されたものである。『御文章』三帖目の第七通には、「しかれば、南無の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに阿弥陀仏といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり」と、「南無」の二字を衆生の信心(機)、「阿弥陀仏」の四字を阿弥陀如来の救済の力用(法)として示される。すなわち、衆生の信心(機)である「南無」と阿弥陀如来の救済の力用(法)である「阿弥陀仏」とが一つの南無阿弥陀仏として成立していることを機法一体と示すのである。
 しかし剋実通論すれば、南無阿弥陀仏の六字全体がそのまま衆生の信心(機)であり、また南無阿弥陀仏の六字全体がそのまま阿弥陀如来の救済の力用(法)であるので、『御文章』三帖目第二通に「さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり」と六字皆機が示され、一帖目第十五通には、「南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり」と六字皆法が示される。

B仏凡一体との同異

 機法一体の「一体」が、本来一つであることを意味するのに対して、仏凡一体の「一体」とは、本来は別のものが一つになることを意味する。仏凡一体の「仏」とは仏心を指し、『御文章』二帖目第十通に「如来のよき御こころ」といわれているもので、仏智・清浄真実の心等ということもできる。「凡」とは凡心のことであり、同じく『御文章』二帖目第十通に「行者のわろきこころ」といわれているものである。これは、煩悩罪濁の心・虚仮不実の心等ということもできる。このような仏心と凡心とが一つになることを仏凡一体という。
 どのように一つになるかについては、『御文章』二帖目第十通に、「行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまふ」とあり、『蓮如上人御一代記聞書』本第六十四条に「衆生のこころをそのままおきて、よきこころを御くはへ候ひて、よくめされ候ふ」と示されている。つまり、仏凡一体というのは、衆生の煩悩罪濁の心が、仏智によって転じられ、仏の清浄真実の心と一つになるという事態をいうのであって、『蓮如上人御一代記聞書』本第六十四条に「衆生のこころをみなとりかへて、仏智ばかりにて、別に御みたて候ふことにてはなく候ふ」といわれている。

〔結び〕

 機法一体という語そのものは西山派でよく用いられる語であるが、『御文章』の中で蓮如上人は、機法一体の語を用いて浄土真宗の法義を明らかにされている。  機法一体の義そのものは、宗祖や善導大師の上にすでに存する。すなわち、「信文類」の三重出体の釈には、「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」とあり、至心の体は名号と示され、衆生の信心とは名号願力によって成立している信心であると示されている。また「信文類」に引用される善導大師の「散善義」の二河譬においても、「中間の白道四五寸といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ」と、白道とは信心を喩えたものであると示し、後に「かの願力の道に乗じて」と、白道とは願力のことであると示されるところに、衆生の信心(機)がそのまま阿弥陀如来の願力(法)であるということが示されている。  衆生の信心(機)と阿弥陀如来の救済の力用(法)とは、本来一つのものであり、衆生の信心は仏のはたらきによっておこるものであって、衆生自らがおこすものではない。


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