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機法一体

一、出拠

 『御文章』(三帖目第七通)に「しかれば南無の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに阿弥陀仏といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり」等、あるいは(四帖目第八通)「南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり」等とある。この他に、四帖目第十一通・第十四通にも同様の文が見られる。機法「体の語は、『願願鈔』・『六要鈔』・『存覚法語』・『蓮如上入御一代記聞書』等にも見られ、特に『安心決定鈔』に数多く見られるが、今は『御文章』を正しき出拠とする。

二、名 義

 機法という対目は、元来仏の教法と、その教化の対象となっているものとの関係を表わす語であった。

 『法華玄義』の感応妙の釈下に微・関・宜の三義をもって機を釈されたものがそれである。即ち仏の教化に応じて、菩提心を発す微をもち、教化に深い関係をもち、また化益を施すに適した者であるから機というのである。これを古来所彼の機とも性得の機ともいいならわしている。蓮如上人の機の語例には、如来の救済の対象となっている者、人の心、弥陀をたのむ信心、信心を得て正定聚に住している者等の種々の用例があるが、機法一体の機は「阿弥陀仏を信ずる機」といわれるように信心のことである。これを受法の機といいならわしている。けだし生得の機の上に与えられた信心であるから、機という名を信心に及ぼしたのである。

 「法」とは衆生を救う摂取不捨の教法をいう。

 「一体」とは不二のことで、南無阿弥陀仏において南無の機と、阿弥陀仏という摂取不捨の法とが、機法の別がありつつ不二であることをいう。なお衆生と仏とが離れない在り方をしているという不離一体を表わす場合もある。このときは、如来の摂取不捨を法といい、摂取されている正定聚の人を機といわれたことになる。これも受法の機というべきである。

三、義相

 出拠にあげたように、『御文章』三帖目第七通等によれば、南無阿弥陀仏の南無の二字を阿弥陀仏を信ずる機とし、阿弥陀仏の四字をたすけたまう法と いうように、二字と四字に分釈し、名号はたのむ機 とたすけまします法とが一体であるという機法一体の道理をあらわしているといわれている。すなわち「たのむ」機、すなわち信心は、「たすけたまう」法、すなわち摂取不捨の願力によって起こさしめられたものであって、たすける法の外にたすがる信心はない。ゆえに機と法とは一体(不二)であるといわれるのである。

 すでに「たすけたまう」法が、私の上に「おたすけをたのむ」信心となって顕現しているのであるから、「たのむ」信心が発ったとき、信心の行者は「たすけたまう」法に摂取される。その摂取不捨の利益にあずかっているすがたを三帖目第七通には、彼此三業不相捨離と釈されたが、この場合は、如来と信心の行者との不離一体のことを機法一体といわれたといえよう。

 さて名号を聞くということは、「われをたのめ、必ずたすける」という機法一体に成就されている法のいわれを聞くことであるから、六字みな法である。この法を聞いた信心は、「弥陀のおたすけをたのむ」というあり方をしているから、信心、すなわち機も南無阿弥陀仏であって、六字みな機であるといえる。こうして六字を二字と四字に分釈して機法一体をあらわす場合と、六字がみな法であり、また機でもあるという表し方がある。特に後者は一句の南無阿弥陀仏を仏の側からいえば「たのませてたすける」願力の法を顕しており、衆生の側からいえば「弥陀をたのむ」信心のありさまをあらわしていることになる。このように機も南無阿弥陀仏、法も南無阿弥陀仏であるという道理によって、法が機となるという本願力回向の信心のありさまが明らかになるのである。いいかえれば、親鸞聖人が顕わされた本願力回向の行信を蓮如上人は機法一体の道理として顕わされたのである。

 なお、蓮如上人が重く用いられた『安心決定鈔』の機法一体論は、衆生の往生と仏の正覚が一体不二に誓われているという道理を顕わすことを主としていた。それを往生正覚一体の機法一体説とよんでいる。その道理を仏と衆生の上で生仏互入の機法一体説として展開したり、念仏衆生と摂取不捨の如来との彼此三業不離の道理を機法一体といわれることもあった。しかし蓮如上人のような「たのむ」機と「たすける」法との機法一体説は見られない。

 なお、機法一体とよく似た名目に仏凡一体がある。『御文章』(二帖目第十通)には「さらに一念も本願を疑ふこころなければ、かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、すでに行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまふなり。このいはれをもって仏心と凡心と一体になるといへるはこのこころなり。これによりて弥陀如来の遍照の光明のなかに摂めとられまゐらせて、一期のあひだはこの光明のうちにすむ身なりとおもふべし」といわれたものがそれである。しかし仏凡一体は信心の利益としての転成をあらわす法義であって、他力回向の信心の構造を顕わす機法一体とは区別しておかねばならない。

以 上


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