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十劫久遠

平成16年

〔題意〕

 阿弥陀仏の成仏の時期について、『無量寿経』および『阿弥陀経』は十劫の昔(十劫成道)と説くが、他経によれば久遠劫の昔(久遠実成)と説く。この両者の説意をうかがい、真宗の阿弥陀仏観を明らかにする。

〔出拠〕

「十劫」については、『無量寿経』巻上に、

成仏已来、凡歴十劫。(成仏よりこのかた、凡そ十劫を歴たまへり)
と説き、『阿弥陀経』に
阿弥陀仏成仏已来、於今十劫。(阿弥陀仏は成仏したまひてよりこのかた、今に十劫なり)
と説かれる。またこれを『讃阿弥陀仏偈和讃』には、
弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり
  法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり
と讃ぜられる。  これに対し「久遠」については、『大経和讃』に、
弥陀成仏のこのかたは いまに十劫とときたれど
  塵点久遠劫よりも ひさしき仏とみえたまふ
と示される。

〔釈名〕

 「劫」とは梵語カルパの音写。大時、長時と訳す。きわめて長い時間の単位のこと。これはよく盤石劫、芥子劫の譬喩であらわされるところである。
 「十」とは数の十のこと。「十劫」とは一劫の十倍。ここでは阿弥陀仏の成道について、それが十劫の昔であること、すなわち「十劫成道」をいう。
 「久遠」とは久遠劫のこと。ここでは阿弥陀仏が久遠劫の昔より、実に正覚を成就したもうている仏であること、すなわち「久遠実成」をいう。

〔義相〕

 『大経』に説かれる阿弥陀仏は、十劫の昔に成仏された有始無終、従因至果、因願酬報の報仏であるが、『法華経』寿量品には釈迦如来の本門を五百塵点久遠劫よりも久しき古仏と示されており、宗祖はこの本門の釈迦をもって阿弥陀仏と見抜かれたといえる。そこで『大経讃』には「塵点久遠劫よりも ひさしき仏と見えたまふ」と示され、さらに『諸経讃』では、

久遠実成阿弥陀仏 五濁の凡愚をあはれみて
  釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城には応現する
と讃ぜられる。すなわち阿弥陀仏は『大経』、『小経』では十劫成道と説かれてはいるが、その実は久遠実成の古仏であると示されるのである。久遠の仏とは無始本有の仏であることをいう。十劫成道の仏は、この久遠仏より衆生済度のために従果降因した仏である。
 久遠仏とは、無始已来流転の衆生にはたらき続けている仏であることを意味するといえるが、一方で衆生において領解できるのは、有始にして成道の過程をしめしたもうた十劫仏である。そこで『大経』には十劫成道が説かれ、弥陀大悲の因願酬報のありさまが、衆生に親しく領解されるべく開説されているのである。
 この十劫仏と久遠仏の関係について、阿弥陀仏は久遠の古仏であるが、この久遠仏より法蔵菩薩と名のり出て成道したもうたのが十劫の阿弥陀仏であるとして、時間的前後の関係で示される場合と、十劫仏は一如より垂名示形し修因感果した従因至果の仏であるが、この一如がすなわち久遠仏といえるのであるから、従因至果の仏がそのまま従果降因の仏であるとして、空間的関係において十劫即久遠と示される場合とがある。
 したがって阿弥陀仏は十劫の昔に成仏された従因至果・有始無終の仏と示されてはいるが、その実は久遠劫の昔からの仏であって、従因至果がそのまま従果降因であり、有始無終がそのまま無始無終であるところの本来の仏であることをいうものである。

以 上


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