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本願一乗

平成21年

〔題意〕

 成仏の法は本願一乗のみであって、聖道門及び浄土門内の要門・真門を権仮方便として、本願の一法のみが真実の法門であることを明らかにする。

〔出拠〕

「行文類」一乗海釈、『愚禿鈔』、『一念多念文意』文は省略する。

〔釈名〕

 「本願」とは、第十八願のことである。「一乗」の「一」とは、唯一無二の意である。「乗」とは、運載の意で衆生を大菩提に運載する意味である。つまり、「本願一乗」とは、第十八願法、すなわち弘願法のみが衆生を大菩提に運載する唯一無二の法であるという意味である。

〔義相〕

(一) 一乗の義を明かす

@所至の究竟
 一乗法とは、究竟の仏果を所至とするものでなくてはならない。何故なら、究竟を所至としない乗は、究竟に至るためには、他の乗を必要とし、これでは一乗といえないからである。弘願法の所至は、「証文類」に「利他円満の妙位、無上涅槃の極果」と示され、それは第十一願所誓の滅度である。宗祖は滅度の転釈の中、「無為法身」を出されるが、これが一乗海釈中の「究竟法身」に他ならない。これはまた、『唯信鈔文意』に、「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」と釈される、いわゆる法性法身である。宗祖は、滅度の転釈を「一如」で結ばれ、「しかれば、弥陀如来は如より来生して」と、主伴同証すなわち衆生の所証と弥陀の所証とが一つであることを示される。そして、「行文類」引用の『往生礼讃』に、「諸仏の所証は平等にしてこれ一」と説示されるように、究竟の仏果は、一切の仏において平等であり、一である。これが、一乗海釈の「異の如来ましまさず、異の法身ましまさず」と釈される意である。
 なお、一乗とは大乗であると示されるが、大乗に対する小乗とは声聞乗・縁覚乗の二乗を意味し、その所至は阿羅漢・辟支仏であり、究竟の仏果ではないからである。その大乗とは、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗・仏乗の四乗の中の仏乗のことである。
 後に二乗・三乗と出されるが、聖道法を菩薩乗として二乗に加え、三乗とする。二乗の所至が究竟の仏果でないのは当然であるが、極重の悪人にとっては、聖道法によっては究竟の仏果に至ることはできず、結局、一切衆生を善悪賢愚の隔てなく運載し、真実報土に往生せしめ、究竟の仏果を得せしめるのは弘願法のみであり、これを誓願一仏乗という。すなわち、

大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり。
と釈される意なのである。

A本願の力用
 一乗法は、一切の機を運載するものでなければならない。何故なら、その法によって運載されない機が存在すれば、その機のために他の乗を必要とするからである。弘願法の所彼の機は、偈前の文に、「その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり」と示される。海の釈に「凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水となる」、「願海は二乗雑善の中下の屍骸を宿さず。いかにいはんや人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや」と、本願一乗海は、凡夫・聖者、逆謗闡提の雑善・無明を転ずるといわれ、それゆえ、そこには二乗の雑善、人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の自力行・自力心の存在が許されないと説かれるのは、一切の機を運載する法であることを示しているのである。

(二)念仏と諸善との比較

 一乗海釈では、『大経』所詮の教法である第十八願法を念仏であらわし、八万四千の法門を『観経』顕説の要門法に摂めて諸善であらわし、念仏と諸善とが比校対論されている。また、弘願法に運載される他力の機と、要門法によって成仏道を歩む自力の機とが比校対論されている。
 すなわち、教について念仏と諸善、機について自力の機と他力の機とを比校対論することによって、誓願一仏乗があらゆる法門に超え勝れた唯一無二の法であることが明らかにされているのである。なお、教について「絶対不二の教」といわれるが、これは、相対を絶した絶対ではなく、他の教法から抜きん出て、比肩するものがないほど勝れた唯一の教法であるとの意である。機について「絶対不二」がいわれるのも同じ意趣である。


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