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報化二土

平成17年

〔題意〕

 宗祖は浄土には報土(真土)と化土とがあると判別されたのであるが、その報化二土弁立の教義の特色を明らかにする。

〔出拠〕

・『往生要集』巻下末(真聖全一・八九〇頁)

衆生の起行にすでに千殊あれば、往生して土を見ることまた万別あるなり。もしこの解を作さば、諸経論のなかに、あるいは判じて報となし、あるいは判じて化となすこと、みな妨難なし。ただ諸仏の修行、つぶさに報化の二土を感ずることを知れ。
・「行巻」(真聖全二・四五頁)
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
・「真仏土巻」(真聖全二・一四一頁)
それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。(中略)すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。
その他、『往生要集』巻下末「報化得失」、「真仏土巻」、「化身土巻」、『浄土文類聚鈔』、『愚禿鈔』、『三帖和讃』等の文。

〔釈名〕

 「報」とは報いるの意であり、選択本願によって酬報した真実報土のことである。「化」とは化現の意であって、未熟の機の感見に応じた方便化身土のことである。「二土」とは真実報土と方便化土の二つの土(真土・化土)のことである。

〔義相〕

 先ず、『浄土三部経』と真宗七祖の浄土から述べる。『大経』の胎化得失の中には、明信仏智の者は自然に化生するが、疑惑仏智の者はかの宮殿に生まれて、寿五百歳つねに三宝を見たてまつらず等と詳しく説かれて、仏智を信じて浄土往生を願うべきことがすすめられている。又『観経』は阿弥陀仏の九品の浄土が詳しく説かれている。これらをうけて宗祖は三経差別門と三経一致門とを示され、『観経』と『小経』にそれぞれ顕彰隠密の義が示されるということになるのである。
 又、真宗七祖の浄土については「真仏土巻」の中に引文されているものによって示すと『浄土論』の中に「観彼世界相、勝過三界道、究竟如虚空、広大無辺際」等の文とか『論註』巻上の「この性のなかにおいて四十八の大願を発して、この土を修起したまへり。すなはち安楽浄土といふ」等の文が引文されている。又「玄義分」の「是報非化」の語や「西方の安楽阿弥陀仏はこれ報仏報土なり」等の文や「定善義」の「西方寂静無為楽」等の文や『法事讃』巻下の「極楽無為涅槃界」等の文が引文されているが、ここでは七祖の仏身仏土論を述べるところではないのでこれ以上はふれない。ただ「報化二土」の語は『往生要集』巻下末に出てくる語であり、ここに源信僧都の釈功があることは明らかである。
 さて次に、宗祖の報化二土について述べる。宗祖の報化の義は『往生要集』巻下末の報化二土や報化得失からの教示によって、「化身土巻」要門釈に報化得失の文が引文されている。又『高僧和讃』などでも讃じられている。そこで先ず、真実報土からいうと、「行巻」に「往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり」といい、「真仏土巻」に「つつしんで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなはち、大悲の誓願に酬報するがゆゑに、真の報仏土といふなり。すでにして願います、すなはち光明・寿命の願これなり」といわれている。又「しかれば、如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す」といい、「それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。(中略)選択本願の正因によりて、真仏土を成就せり」等と述べられている。真仏は無辺光仏・無礙光仏・諸仏中の王・光明中の極尊・帰命尽十方無礙光如来等と示されている。又真土は無量光明土・究竟如虚空広大無辺際・真仏真土等と示されている。真仏真土は身土不二であり、第十二・十三願の両願によって酬報された国土であり、それは方即無方・辺即無辺・数即無数の絶対界である。
 又、「化巻」のはじめに「化身化土」を定義して「つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり」といわれている。又、小経隠顕の箇所に「仏とはすなはち化身なり。土とはすなはち疑城胎宮これなり」といわれている。あるいは「真仏土巻」の真仮対弁の箇所に「まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく」ともいわれてあり、衆生の自力の行業がさまざまであるから、うけとるところの浄土の果もさまざまである。
 最後に化土存在の理由について述べる。化土は種々の名で呼ばれている。含華・胎生・胎宮・辺地・疑城・懈慢界等とも呼ばれている。すべて化土の異名である。名の異なった別の願土があるということではない。この中、含華は華の中につつまれて一定の間、真実の三宝を見聞することができないのである。胎生は含華の状態が母の胎内に子を宿している様なものである。胎宮は宮殿の想に住している様な状態。辺地(辺界)は化土を貶した名であり、浄土の中から離れた土地である。そしてここまでは果の上の名称である。また、疑城は仏智を疑う者の行く浄土である。懈慢界(懈慢国土)は信機信法の二種深信の欠けた人がいく浄土であって、この疑城も懈慢界も共に衆生の因の上からいったものである。疑惑仏智や信罪信福を誡めて明信仏智や信機信法を勧めているのである。第十八願の他力信心のない人が、ただちに真実報土に往生することは不可能である。そこで阿弥陀仏の悲願のてだてとして、この土で自力信にとどまっている人を化土に往生させ、そこで仏智疑惑を誡めさせ、化土から離れしめて真実報土に往生させようとする如来の慈悲心がはたらいているのである。結局は不純な願生者をして真実報土に帰入せしめんがための弥陀のてだてというべきであり、これによって真仮の分斉を明らかにしようとしているのである。


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