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平生業成

平成14年

〔題意〕

 浄土真宗においての平生業成の意義を明らかにし、臨終来迎に簡ぶ旨を鮮明にする。

〔出拠〕

『御文章』一帖目第二通(『真聖全』三・四〇四頁)

 さればこの信をえたる位を、『経』(大経・巻下)には「即得往生住不退転」と説き、『釈』(論註・巻上意)には「一念発起入正定之聚」ともいヘリ。これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。
『浄土真要鈔』(『真聖全』三・一二三頁)
 親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして臨終往生ののぞみを本とせず、不来迎の談にして来迎の義を執せず。
その他
『口伝鈔』
『改邪鈔』等がある。

〔釈名〕

 「平生」とは、尋常の時節のことであって、臨終に対する語である。「業成」とは、業事成弁・業因成就の義である。よって、「平生業成」とは、平生の聞信の一念に、得果の因が衆生の上に成就することをいう。よって、義からいえば、信一念業成である。

〔論点〕

(一)平生業成の名義

 平生業成の平生とは、尋常の時節のことで、臨終に対する義である。従って平生業成とは、臨終業成・臨終来迎に対する義である。
 それでは、臨終来迎の義とはどのようなものか。
 臨終とは命終の時を指す。来迎とは、仏・菩薩の来迎のことである。これを合釈すれば、臨終来迎とは平生に積んだ善行による往生を確信するために、臨終の時に仏・菩薩の来迎を要期することである。
 「来迎」それ自体は、弘願義において説かれている。
 『観経』に「無量寿仏、化身無数、与観世音・大勢至、常来至此行人之所。」とある常来迎、『玄義分』の「釈迦此方発遣、弥陀即彼国来迎」の文中、弥陀の招喚を来迎と名づけてある来迎、さらに『一念多念文意』の「恒願一切臨終時、勝縁勝境悉現前」の釈などにある勝縁勝境の現前する来迎、また『唯信鈔文意』に説かれている還来待迎の来迎などがそれである。しかし、ここでいう来迎は「臨終来迎」であり、諸行往生の者が要期する臨終来迎のことである。

(二)平生業成の理由

 浄土門内において、平生業成を説く教義的理由は、
@生因三願の見方の相違を明確にする。浄土異流では、生因三願に真仮を分かたず、来迎は第十八願の利益であるとみる。これに対して、宗祖は生因三願に真仮を分かち、第十八願を真実の願とされ、臨終来迎については『末灯鈔』(『真聖全』二、六五六頁)に

 「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに 臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。」
と明示されている。
A第十八願の弘願法門は信益同時であることを開顕されたのである。すなわち、信一念のとき往生決定であり、即時に摂取不捨の利益にあずかり正定聚に住するのである。この信一念のところに往生の業因が成就することを平生業成というのである。
 ところで、平生業成と現生正定聚は、共に信益同時の利益を顕わすことにおいては同じである。しかし、平生業成は臨終来迎・臨終業成に対する言葉であり、正定案は邪定聚・不定聚に対する決定往生の者の位態を顕わす言葉であり、その所顕を異にするところである。

(三)平生業成の根拠

 本願の文に「若不生者」とあり、成就文では「即得往生 住不退転」と説かれている。本願の文では、衆生往生の因が三心とされている。しかし、成就文ではこれを「聞其名号 信心歓喜」と述成されている。この聞信の一念に往生の業因が成就することを平生業成の根拠とするのである。従って、たとえ時間的に聞信の時が臨終であっても平生業成なのである。

(四)平生業成義の相承

平生業成の義は、本願成就文の聞信一念即得往生に基づき、宗祖の釈義に鮮明に示されるところであるが、「平生業成」という名目は、覚如上人の『改邪鈔』、存覚上人の『浄土真要鈔』に用いられ、蓮如上人にいたって徹底して明示されたものである。

以 上


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