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称名破満

平成10年度

一、出拠

 『本典』行巻の大行出体釈に「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」とあり、これを承けて諸経からの引文の結びとして「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり」等と述べられる。また、これら二文を合わせたかたちで、『略典』の三法別釈には「大行といぶは、すなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はあまねく一切の行を摂し、極速円満す。ゆゑに大行と名づく。このゆゑに称名はよく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」等と示されている。さらに、『高僧和讃』曇鸞讃には「無碍光如来の名号と かの光明智相とは 無明長夜の闇を破し 衆生の志願を満てたまふ」とある。これらの基づくところは『論註』下巻の讃噴門釈の「かの如来の名を称すとは、いはく、無碍光如来の名を称するなり。(中略)かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲すとは、かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」等とある文である。この他にも関連する文は数多く見られる。

二、名 義

 「称名」とは称念仏名、すなわち名号を称えることである。すなわち、第十八願に誓われた如実の称名のことであり、『本典』行巻に顕わされた大行をさす。また、「破満」とは破闇満願の略で、衆生の一切の無明をうち破り、往生成仏の志願を満足せしめることである。

三、義相

 宗祖は『本典』行巻の冒頭に「大行とは無碍光如来の名を称するなり」等と、まず大行の内容を明らかにし、続いて所称の名号の徳をあらわす一連の文を諸経から引用して、その結びとして「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」と、名号のもつ破満の徳を称名のところで顕わされている。すなわち、破闇満願の徳用は衆生の能称の功によるのではなく、所称の名号に帰せられるべきである。それゆえ宗祖は「満てたまふ」という約仏の点を施して破満の徳が法体名号にあることを示されたのである。

 そもそも行巻の称名破満の釈は、『論註』下巻の讃嘆門釈における名号破満の釈にもとづいたものであることは言うまでもない。すなわち、『論註』は、五念門の中の讃嘆門の称名を明すにあたり、仏の光明について破闇の徳を語り、名号において、無明の闇を破り志願を満足せしむる破満の徳用が明されている。これによって名号の徳義である無碍光如来のいわれにかなって称える如実の称名には、破闇満願の徳がそなわっていることを顕わされるのである。したがって、もしその称名が不知実のものであれば、破満の徳はないと言われる。それが次下に示される二不知・三不信の誡めである。二知・三信は一心に帰するが、行巻および『略典』の称名破満の釈においても、その義を顕わすために称名を名号に、あるいは信心に帰する転釈がなされている。こうして不知実の称名、すなわち本願の信心にもとづかない称名には破満の徳を具すことがないが、如実の称名には名号の徳義である破満の徳用があると釈顕されたのである。宗祖はこの意を承けて称名破満の釈をもうけ、これによって善導・法然両祖から相承された称名正定業説を極成されたのである。破満釈を承けて「称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり」と言われた所以である。

 無明とは、『論註』はおそらく旧訳『華厳経』十地品に「如実に第一義を知らざるが故に無明あり」とか、「真諦の義を知らざる、是を名づけて無明とす」と言われたものに依ったのであろう。すなわち真如実相に背反し、真諦を了知しない無知のことである。『論註』はそれを虚妄なる分別とし、「分別をもってのゆゑに長く三有に淪みて、種々の分別の苦・取捨の苦を受けて、長く大夜に寝ねて、出づる期あることなし」と言われている。このような虚妄分別すなわち無明を破る智慧を権実不二の智慧とし、それが方便法身の名号となって、衆生の無明を破り、往生成仏の志願を満足せしめると言われるのである。

 宗祖の無明という言葉の用例を見ると、「四暴流」の中の無明暴とか、「無明心品」とか、「無明煩悩われらが身にみちみちて」と言われる場合の無明は、真如に背反する無知のことで、仏教で一般にいう無明と同義であるから、痴無明と言いならわしている。しかし、「正信偈」などに「已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天」等とある場合の無明は、仏智不思議の本願を疑惑する心のことと見なければならないから疑無明と言いならわしている。

 その痴無明は凡夫の地体であるから、機相においては臨終まであり続けるが、疑無明は信の一念に破られる。すなわち無碍光の徳用によって信の一念に疑無明は破られて、往生一定の安堵心を与えられる。しかし、凡夫のままで往生一定といいうるのは、願力の徳用によって無明煩悩が功徳に転ぜられているからである。それは法徳であって、密益としてめぐまれる。それが無明煩悩あれどもさわりなしといえる所以である。こうして、「名を称するに衆生一切の無明を破る」と言われた無明は、法徳から言えば、痴無明が転ぜられることであり、機相からいえば疑無明が摧破されることを言う。

 次に「志願」とは、『論』の「一切所求満足功徳」に「衆生所願楽 一切能満足」とある所願をさし、広く言えば願作・度生の菩提心の満足であり、往生成仏の志願をさしていたと言えよう。

以 上


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