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行一念義

【題意】

 称名の初一声に大利を得るという義について窺い、それは諸行の法に対して、本願の法が至易最勝の法なることを顕わすものである旨を明らかにする。

【出拠】

 「行文類」 (真聖全二、三四頁)に、

凡就往相回向行信、行則有一念、亦信有一念。
言行之一念者、謂就称名遍数顕開選択易行至極。
 おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。
とあり、また『一念多念文意』(同前、六一一頁)には、『大経』弥勒付属の文の釈(原文省略)があり、『末灯鈔』第十一通(同前、六七二頁)には、行信両一念不離のお示し(同じく原文省略)がある。これらの三文を行一念義の出拠とする。

【釈名】

 「行」とは「行文類」に説かれている大行であり、法蔵因位の万行造作の徳を具し、衆生を往生即成仏の証果に進趣せしめる法体名号のことである。また、「一」とは初一の義、「念」とは称念の義であり、「一念」とは初一声の義である。まとめれば、「行一念」とは、衆生に領受された法体名号が口業に発動する最初の一声、つまり信後の初一声のことである。

【義相】

@ 正依『大経』には、数箇所に「一念」の語が出るが、本願成就文(真聖全一、二四頁)と三輩段中の下輩(同前、二五頁)と弥勒付属(同前、四六頁)の三処の一念が往因に関係する一念であり、余他の一念は往因に関係しない。宗祖は、今の行一念釈には弥勒付属の一念を例示され、「信文類」の信一念釈(真聖全二、七一頁)に本願成就文の一念を例示される。また、特に三輩段中の一 念を取り上げての釈はないが、「化身土文類」(同前、一四四頁)・『三経往生文類(広本)』(同前、五五五頁以下)には三輩段を第十九願成就の文と位置づけられる。法然聖人は、『選択集』「利益章」(真聖全一、九五二頁)に三処の一念をすべて行の一念と示される。覚如上人は、『口伝鈔』第二十一条(真聖全三、三四頁)に本願成就文の一念と弥勒付属の一念とを同一のものと位置づけられ、蓮如上人は、『御文章』五帖目第六通(同前、五〇三頁)に、弥勒付属の一念を信の一念と位置づける釈を示された後、『正像末和讃』をもってその意をあらわされる。
 このように、三処の一念についての釈義は一様ではないが、本願成就文・弥勒付属の文の一念は、いずれも機が法体名号を領受した一念であり、行信どちらで見ても可というべきであろう。三輩段の一念については、法然聖人の『選択集』「三輩章」(真聖全一、九四八頁以下)に念仏と諸行との関係を廃立・肋正・傍正の三義で示されるように、三輩段全体が真仮両通であると見ることができ、宗祖も「信文類」菩提心釈(真聖全二、六九頁)に三輩段中の菩提心を真実信心と示されるべく『往生論註』の文を引用される等、三輩段を要門義一辺倒と見られているのではない。
 これらの一念は、機受を示すものであるから剋実通論すれば行信両通ではあるが、本願成就文は機受の極要を示したものであるから信の一念と見るのが文に親しい。また、弥勒付属の文は、胎化段の「為失大利」(真聖全一、四四頁)と対照すれば、信疑得失の意で信の一念と見ることもできるが、弘願法を弥勒に付属するとの意からすれば、聖道法の経道滅尽に対して止住百歳する弘願法を機受の念仏をもって行々相対して示すのが便であり、行の一念と見るのが文に親しい。法然聖人は行々相対して念仏諸行の廃立を行われて浄土宗独立を主張する立場から、機受を行の一念で釈され、宗祖は弘願法開顕の立場から拠勝為論して、成就を信の一念、付属を行の一念と釈されたのである。

A 行一念釈は、まず行信の不二不離を示すべく行信の両一念を標するが、信一念の釈は「信文類」に送って、ここでは行の一念のみが釈される。その行の一念とは、称名の遍数すなわち回数について選択易行の至極、すなわち弘願法の至易を顕すものであると釈される。つまり、わずか一声の称名によって大利を得て無上の功徳を具足するのであるから、積累して功徳を高める諸行の法に対して至易というべく、また得大利・具足無上功徳に着目すれば最勝ということができる。この得大利・具足無上功徳は、初一声にかぎらず、名号全顕であるところのどの一声においても語ることができる。その意味では、行一念の一念とは信後のどの一声でもよく、初後を問わないとの見方も充分成立し得るが、功徳を積累する諸行の法との対比という意味からすれば、初一声と理解するのが妥当である。諸行の法に対しているということは、後に

言大利者対小利之言。言無上者対有上之言也。
信知、大利無上者一乗真実之利益。小利有上者則是八万四千仮門也。(真聖全二、三四頁)
   大利といふは小利に対せるの言なり。無上といふは有上に対せるの言なり。まことに知んぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。
とあるのよりすれば明らかであり、この諸行の法とは、すなわち八万四千の仮門であって、「化身土文類」の門余の釈(同前、一五四頁)をも参照すれば、本願一乗海すなわち弘願法以外の法門すべて、つまり聖道法・要門法・真門法すべてを意味する。
 なお、易は機受無作を、勝は法体全顕をあらわすのであり、至易即最勝というべきであろう。
 弥勒付属の文以降、行相の釈・一念の会合釈等の随文解釈は省略する。

B 行一念釈と信一念釈とは、ともに機受の一念についての釈であるが、その所顕は異なる。すなわち、行一念釈の所顕は法体の超勝であり、法体名号全顕の称名に於いて、その初一声からすでに得大利の力用をそなえていると示すことによって、諸行の法に対して弘願法の至易最勝を顕わすのである。これに対して、信一念釈の所顕は唯信独達であり、信楽開発の即時に入正定案の利益を獲るという、受法得益同時を示すことによって、願力回向の信心以外のなにものも往因成就に関係しないことを顕わすのである。

C 行信両一念はともに機受の一念である、そのありようは異なる。すなわち、法体名号が衆生の心に領受されたのが信であり、領受された名号が口業に発動されたのが行である。この両一念は不離と示されるが、その不離のありようは、まず心に法体名号を領受する、その最初の時が信一念、それが口業に発動する最初の一声が行一念であり、同時不離ではなく、前後不離である。決して信一念同時に称名が存在するのではないことに注意をはらうべきである。
 『末灯鈔』第十一通には行信両一念の不離が示されている。まず、本願の「乃至十念」を「下至十声一声等」の一声と示して、本願への無疑を信、信後の称名を行と釈される。所聞所信の本願の一声はそのまま信後の初一声と重なり、無疑の信心との不離が示されるのである。すなわち、所聞所信がそのまま能聞能信となる信、言い換えれば法体名号を体とする信であるから、その信は、必ず称名となって口業に発動する信(行を離さない信)であり、また、如実の称名、法体全顕の称名とは、大信海流出の称名(信を離れない行)であることを明らかにするのが、この釈の所顕である。

以 上


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