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行一念義(2019)

【題意】

 初一声の称名に大利を得るという意をうかがい、選択本願の念仏は、諸行に比して至易最勝の法であることを明らかにする。

【出拠】

「行文類」行一念釈の文、『一念多念文意』付属釈の文、「親鸞聖人御消息」の文等。

【釈名】

 「行」とは「行文類」に説かれている大行であり、法蔵因位の万行造作の徳を具し、衆生を往生即成仏の証果に進趣せしめる法体名号のことである。また、「一」とは初一の義、「念」とは称念の義であり、「一念」とは初一声の義である。まとめれば、「行一念」とは、衆生に領受された法体名号が口業に発動する最初の一声、つまり信後の初一声のことである。

【義相】

一、『大経』所説の「一念」の分斉
 『大経』所説の往因に関する「一念」は、本願成就文(以下「成就文」と略称)、三輩段の文、付属の文にある。源空聖人は『選択集』利益章で付属の一念について、

いまこの一念といふは、これ上の念仏の願成就のなかにいふところの一念と下輩のなかに明かすところの一念とを指すなり。(一・一二八一)
等と示し、三ヶ所をすべて行の一念とみられる。
 宗祖は、成就文の「一念」を、
あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。(二・六八)
と読まれ、それは受法得益同時の唯信独達の宗義をあらわしているとして、信の一念であるとみられる。また、三輩段の「一念」は、真仮分判の立場から「化身土文類」に第十九願成就文とされている。一方で「信文類」菩提心釈に「みな無上菩提の心を発せざるはなし」(二・九二)と引かれて他力の信心の意とみられるなど、真仮に通じる釈を施されるから一文両義である。そして、付属の「一念」は、
当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲をもって哀愍して、特にこの経を留めて止住すること百歳せん。(一・六九)
とある経意を承けて、行の一念とみられる。
 この他、歴代では、覚如上人は『口伝鈔』第二十一条に信の一念の出拠として成就文並びに付属の文を挙げ、また、蓮如上人は、付属の文を『御文章』第五帖第六通に拳げ、「正像末和讃」に「五濁悪世の有情の選択本願信ずれば」とある句を示して信の一念とみられる。
 このように、三輩段を除いて、成就文と付属の文の「一念」は、行信いずれにも通じる。しかしながら、それぞれの特徴を挙げて論ずれば、成就文の「一念」は、受法得益同時の初帰の相状をあらわしているから、信の一念とみる方が親しく、付属の「一念」は、「歓喜踊躍」と相続の行相を示し、行行相対して廃立の意をあらわしているから、行の一念とみる方が親しい。

二、遍数の一念の意
 行一念釈には「称名の遍数について選択易行の至極を顕開す」(二・四九)とある。先ず、遍数の意について窺うと、『安楽集』の十念相続釈では、十念の十にとらわれる必要はないとして、初一声のところで業道成弁せしめられる意をあらわし、第二声以後のすべてに名号の全徳がそなわると示されている。また『選択集』の利益章では、「すでに一念をもって一無上となす」「また千念をもって千無上となす」(一・一二八一)とあり、初一声のところで無上大利を得る意をあらわし、「かくのごとく展転して少より多に至る」(同)と示される。これらは一多に執じてはならないことをあらわし、「乃至一念」の「乃至」に即した従少向多の意である。したがって「一念」は、初一声から第二声以後にかかるから、初後を選ばない。しかしながら、行一念釈に、

大利といふは小利に対せるの言なり。無上といふは有上に対せるの言なり。まことに知んぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。(二・五〇)
と示し、また「化身上文類」の門余の釈に、
門余といふは、門はすなはち八万四千の仮門なり、余はすなはち本願一乗海なり。(二・一九六)
と示されるのは、行行相対の経意を承けた釈であり、それは諸善を積み重ねる小利有上の仮門すなわち聖道門・要門、ならびに真門の法を廃し、初一声のところに無上大利の益を得るという誓願一仏乗の意を立てることにある。したがって、就顕の意は、初一声に「ついて」、「選択易行の至極」すなわち衆生の造作を必要としない法体名号の独用を「顕開」するということである。
 次に、衆生の造作を必要としないという点から窺うと、行一念釈で「乃至」に一多包容の釈を施して一念も多念も信相続の行業として包み容れると釈し、称功を募るものではないと示される。また『一多文意』の付属釈には「乃至は、称名の遍数の定まりなきことをあらはす」(二・六六八)とあり、
自然にさまざまのさとりをすなはちひらく法則なり。法則といふは、はじめて行者のはからひにあらず、もとより不可思議の利益にあづかること、自然のありさまと申すことをしらしむるを法則とはいふなり、一念信心をうるひとのありさまの自然なることをあらはすを、法則とは申すなり。(二・六六九)
と示される。すなわち「もとより不可思議の利益」を得しめる「自然」の「法則」とは法体名号の独用であり、「はじめて行者のはからひにあらず」と釈される。したがって、ここに機受無作の易行の意を窺うことができる。
 そして、法体名号の独用という点から窺うと、『往生礼讃』には「この経住すること百年せん。その時聞きて一念せんに、みなまさにかしこに生ずることを得べし」(一・九二七)と釈して、初一声のところに往生・成仏の功徳がそなわると示されている。また『一多文意』には、
一念は功徳のきはまり、一念に万徳ことごとくそなはる、よろづの善みなをさまるなり。当知此人といふは、信心のひとをあらはす御のりなり。為得大利といふは、無上涅槃をさとるゆゑに、則是具足無上功徳とものたまへるなり。則といふは、すなはちといふ、のりと申すことばなり。如来の本願を信じて一念するに、かならずもとめざるに無上の功徳を得しめ、しらざるに広大の利益を得るなり。(二・六六八)
とある。その意は、初一声のところに万徳がそなわっているということであり、それは「かならずもとめざるに無上の功徳を得しめ」「しらざるに広大の利益を得」しめるはたらきがそなわっているということである。したがって、ここに法体名号の独用で無上大利を得しめられるという至極最勝の意を窺うことができる。

三、行相の一念の意
 行一念釈には、遍数の釈に続いて、

釈に専心といへるはすなはち一心なり、二心なきことを形すなり。専念といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。いま弥勒付属の一念はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。一行すなはちこれ正行なり。正行すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。(二・五〇)
と釈し、行相の一念を示されている。このうち「専心」とは無二心の意で心相をあらわし、「専念」とは、無二行の意で行相をあらわしている。続いて「一声・一念・一行・正行・正業」と転釈して、付属の一念は余行をまじえない無二の行業であることをあらわし、また「正念・念仏・南無阿弥陀仏」と転釈して、それは信相続の行業であり、法体名号の活動相であることをあらわされる。すなわち、行信不離不二の意を示されるのである。

四、信の一念と行の一念の関係
 行相の釈に行信不離不二の意を示されているが、「親鸞聖入御消息」には、

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。(二・七四七、七九三)
とあり、信相・行相を釈して、行信不離の意を示される。しかしながら、時を語れば、時剋の釈では、信の一念は、信楽開発の即時に仏因円満するという唯信独達の宗義をあらわし、遍数の釈では、行の一念は、初一声のところで為得大利の徳用を示して法体名号の至易・最勝なることをあらわすから、法体名号が衆生心中に領受された最初の時を信の一念といい、それが初一声となるところを行の一念というのである。したがって、信の一念は前、行の一念は後であり、前後不離の関係となる。


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