1. トップ(法座案内)
  2. 勉強部屋
  3. 安居会読判決
  4. 逆謗除取

逆謗除取

一、出拠

 『大経』の第十八順及び第十八順成就文に、「ただ五逆と誹膀正法とをば除く」と説かれており、『観経』下々品には、十悪五逆の者が、十念念仏によって「往生することを得」と説かれている。この二経の文について、『論註』上巻の八番問答に逆謗の除取を論じ、「散善義」下々品釈には、逆謗の抑止と摂取が論じられている。

 『教行信証』信巻末にはこの『論註』と「散善義」を引いて逆謗摂取が釈されており、『尊号真像銘文』に「唯除五逆誹謗正法といふは、唯除といふはただ除くといふことぱなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり」といわれたものが正しき出拠となる。

二、名 義

 「逆」は五逆罪で、恩福両田に背く罪であって、これに殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合憎という三乗の五逆罪と大乗の五逆罪がある。後者には謗法も摂められている。「謗」とは謗法罪を犯した者の意で、無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法というものをさす。「除」は除外で、五逆・謗法の者が救いから除かれるということ、また「取」は救い取られるということである。したがって、「逆謗除取」とは、五逆や謗法の罪を犯した者は、本願の救いから除かれるのか、あるいは摂取されるのかということである。

三、義相

 『論註』八番問答には、第十八願及び成就文に五逆と謗法を共に除くといわれているのに、『観経』下々品では五逆が摂取されていることについて二義をあげて会釈されている。

 第一は罪の単複に約する。すなわち『大経』は五逆と謗法の二罪を具するから除くといわれ、『観経』は、五逆のみであるから摂取されたというのである。

 第二は論法は単罪でも摂取されないという。一つは謗法は極重罪の故であり、二つには謗法の者には願生の理がないからであるといわれる。これらを総合すれば、『論註』では謗法の者は願生の信がないから救われないという一点に集約されるようである。ただし『論註』下に如来の口業功徳を明かす中に、如来の至徳の名号、説法音声を聞けば、謗法の罪が滅せられるといわれているから、謗法のものも回心して念仏すれば得生を認められていたことがわかる。

 『散善義』の下々品の釈には『大経』に逆謗を除かれたのは未造業のものに対して往生を得ずと抑止されたものであり、『観経』下々品に五逆の罪人の救いが説かれたのは、已造業の者であるから大悲をもって摂取されたのであって、謗法の摂取が説かれていないのは未造業なるが故であるといわれている。すなわち已造・未造をもって摂抑を論ずるのである。ところで『法事讃』に「謗法闡提回心皆往」といわれているのと対応すると、未造業とは、単にまだ造っていないというだけではなく、未回心の者をさしており、已造業とは、単に逆謗を造ったものというだけではなく、罪に気づいて回心しているものというべきである。その意味では『論註』に通ずるものがある。すなわち未造業のものには、造らないようにと誠め、已造業のものには、罪に気づいて回心すれば救われると教化されるのが、未造抑止と、已造摂取の仏意であるというべきである。

 宗祖は「信文類」に上述の『論註』と「散善義」の文を引用して逆謗摂取の義意を論じられているが、『銘文』にはその心を要約して、「除く」というのは、五逆と謗法は、仏が嫌い斥けられる極重罪であることを逆謗の機に知らしめ、自らの罪を罪と認知せしめることによって回心せしめ、本願の大智海に入れしめようとされた善巧の施設であるとされている。

 すなわち「唯除逆謗」の教語は、逆謗の機に深悔を生ぜしめて聞法の機たらしめ、逆謗の機をもらすことなく、一切の衆生に信心を与えて救おうとされた教説で、「除く」という言葉をもって「救い」を実現されたといわれるのである。

 こうして、唯除という「除」は、回心しなければ摂取されないから実除であって、仮除ではなく、回心すれば摂取されるから暫除であって永除ではないといわねばならない。

 次に「唯除」を弥陀の抑止とするか、釈迦の抑止とするかについて古来異論があるが、今は本来弥陀の抑止であって、釈尊はその本仏の意を述成されたものであると考える。『銘文』に「十方一切の衆生みなもれず救わんとなり」といわれたのは弥陀の願意を顕わされたものだからである。『口伝鈔』が「抑止は釈迦の方便なり」といわれたのは、弥陀は摂取を主とし、釈迦は勧誡を主とされることを強調されたもので、理実には摂取も勧誡も二尊に通ずるとみるべきである。

 なお、法然上人はこの唯除の文意をもって念仏者の倫理の根源とされていることは注意すべきである。

以 上


判決メニューへ
勉強部屋メニューへ
トップへ