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逆謗除取

平成18年

〔題意〕

『大経』第十八願の抑止の文には逆謗が除かれるが、『観経』下々品には五逆が摂取される。この相異について逆謗の意義を問い、除取の意趣についてその所顕をたずね、悪人正機の源意を明らかにする。

〔出拠〕

〔釈名〕

逆謗の「逆」とは、「さからう」「反逆」の意で、ここでは恩田・福田に背く五つの反逆罪のこと。五逆とは、殺父・殺母・殺羅漢・出仏身血・破和合僧である。宗祖はこの三乗共通の五逆罪と『薩遮尼乾子経』にある大乗の五逆罪を引かれてある。大乗の五逆罪の中には謗法がおさめられている。
 「謗」とは、「誹謗」のことで、「そしる」「非難する」「否定する」「破傷する」の意である。今は誹謗正法のことで、『論註』には、無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法と自ら解し、他からそのように受けて決定することをいう。
 「除取」の「除」とは、「除外」「除去」「とりのぞく」「はずす」の意をいう。
 「取」は摂取で「おさめとる」「すてない」との意である。したがって「逆謗除取」とは五逆や謗法の罪を犯した者は、本願の救いから除かれるのか、あるいは摂取されるのかということである。

〔義相〕

一、『往生論註』の釈

 先づ『論註』の釈意から窺うと、八番問答中に、『大経』の第十八頭成就文を引いて、五逆謗法以外の一切の凡夫が皆往生をうると釈し、『観経』下々品の文を引いて、五逆罪の者が摂取されていることを示して、二経の相違について問答されている。

二、「除取」の意義

 第一釈は罪の単複について、『大経』は五逆と謗法との両罪であるが、『観経』は五逆の一罪である。即ち『大経』は二罪故、往生から除外されるが、『観経』は五逆の一罪故に往生を得るとする。
 それでは一罪二罪の相異ならば、謗法の一罪では摂取されるかというと、それは不可である。
 その理由として第二釈に謗法の一罪で余罪なくとも往生できない。それは一つには謗法は極重罪であり、二つには仏法を謗り否定する者に願生の理がないからである。たとい為楽願生しても理に合わないからである。
 ただし、『論註』下の如来の口業功徳釈には如来の名号説法音声を聞けば、謗法の罪が滅せられると釈してある。つまり論法の者も回心して如来の口業功徳の名号を信受すれば、往生が認められるとする。『論註』の釈は謗法は願生の理がないから救われないという意義と、回心して名号を信ずれば摂取されるという。「除く」の裏に摂取の大悲をあらわされる釈である。

三、「散善義」の釈

 次に[散善義」の釈を窺うと、『観経』下々品に五逆罪が摂取して往生を得ているが、『大経』には五逆謗法共に除かれている矛盾について、已造と未造に約して二経を通釈されている。

四、摂抑二門と逆謗除取

 即ち未造の者に抑止、已造の者には摂取という義意である。未造抑止はまだ罪を造らない者に対して、造れば堕地獄という極重罪を知らしめ、逆謗の二過を誡しめて、方便して止(とど)めて往生を得ずと抑止されたのである。抑止とは、おさえとどめることである。已造摂取とは『観経』の如く、五逆の悪人、已にその罪を造った者を、仏これを哀愍して捨てず、大悲をおこして摂取して往生せしめる。『観経』では謗法が除かれてあるのは謗法は未造の故に説かれていないが、五逆と同様に已に造らば、摂取して往生を得しめるという法義が、一方を略して互いにあらわしている。未造・已造というが未造の者には抑止しても已造の者を摂取するならば、結局罪を造っても摂取されるならば抑止の意味がなくなるのではないかという疑問が生ずる。それについて『法事讃』に「仏願力をもつて五逆と十悪と罪滅して生ずることを得、謗法と闡提、回心してみな往く」と示される。已造業とは単に逆謗を造っただけでなく、罪を慚愧し廻心している者を意味する。故に未造業が単に造っていないというだけでなく、廻心懺悔していない未廻心の者をさしていることになる。故に未造抑止とは重罪を犯さないよう誡め、罪を認めない未廻心の者に慚愧して廻心に導く意味を持つ。已造業の者は罪を懺悔して、廻心して本願を聞信している者というべきで、そこに未造抑止と已造摂取の仏意を示されたのである。

五、唯除の所顕

 宗祖は「信文類」末の終わりに『涅槃経』を用いて、難化の三機が本願醍醐の妙薬によって救われていくことを示し、『論註』と「散善義」の文を引用してある。この二文の意を要約して、『銘文』に「唯除」の釈を示されてある。
 それによると、五逆と謗法は仏が嫌い斥けられる極重罪であることを知らしめ、廻心して法を信受するよう導き、みなもれず往生せしめようとする大悲の善巧のことばであるといわれる。唯除逆謗とは逆謗の機に慚愧廻心せしめて一人ももらさず信を与えて救うということであるから、「除く」という語をもって救いを実現されたとみられている。
 「唯除」という「除」の意義は、廻心しなければ摂取されないから、実除であって仮除ではなく、廻心すれば摂取されるから、暫除であって永除ではない。
 更に「唯除」は弥陀の抑止か、または釈迦の抑止かの議論があるが、『銘文』に「十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり」といわれて、弥陀の願意であると顕されたのである。
 本願の「十方衆生」の中には未熟の機がある。自力作善にとらわれる善人には第十九・二十願によって従仮入真(にっしん)せしめ、因果を否定し罪悪流転する悪人を哀みて、因果の理法をとき、深悔を生ぜしめて聞法の器を成ぜしめんが為に「唯除」の抑止門を誓われたのである。かくて十方衆生万機普益の誓願のおもむくところ逆謗の悪人こそ本願救済の正所被であると、悪人正機の仏意をあらわされたものである。

以 上


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