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願海真仮

〔題意〕

『本典』の中に、阿弥陀仏の四十八願には真実の願と方便の願とがあると釈されているのであるが、その真仮の分別の意義を窺い、浄土真宗は絶対他力の法門であることを明らかにする。

〔出拠〕

・「真仏土巻」(『真聖全』二・一四一頁)

しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。(中略)すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり
・「真仏土巻」(『真聖全』二・一四一頁)
真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。
・「化身土巻」(『真聖全』二・一五三頁)
これによりて方便の願を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。
・「化身土巻」(『真聖全』二・一五六頁)
いま方便真門の誓願について、行あり信あり。また真実あり方便あり。願とはすなはち植諸徳本の願これなり。
その他、「行巻」偈前の文、『浄土和讃』等の文。

〔釈名〕

 「願海」とは、総じては阿弥陀仏の四十八願海のことであるが、別しては生因三願のことである。今は生因三願の第十八願、第十九願、第二十願について考える。「真」とは真実ということであり、阿弥陀仏の随自意のことである。真は仮に対し偽に対する。
 「仮」とは方便という意味であり、随他意のことである。随他意とは阿弥陀仏の真意ではなく、衆生の機類に合わせるという意味である。第十九願・第二十願がそれにあたる。方便は善巧方便と権仮方便とがあるが、ここでは権仮方便のことをいう。

〔義相〕

 「相承の釈」から述べる。従来から宗祖の三願真仮の判釈に用いられたと考えられるものに、『観念法門』の摂生縁の箇所に本願加減文と第十九願と第二十願等の文があげられている。又『法事讃』巻上に「難思議 往生楽 双樹林下 往生楽 難思 往生楽」という語が度々用いられている。又『漢語灯録』巻一 「大経釈」に但念仏・助念仏・但諸行の三往生が述べてあり、更には「上の本願願成就文の文に但念仏を明かすといえども、上の来迎の願等」と述べられていて、この中に生因三願の意味をくみ取ることができる。

 次に宗祖の釈について述べる。宗祖には顕説(願相)と隠彰(願底)の見方がある。願相は第十八願が「行巻」偈前の文に、

その真実の行の願は、諸仏称名の願なり。その真実の信の願は、至心信楽の願なり。これすなはち選択本願の行信なり。その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。(『真聖全』二・四二−四三頁)
と釈されている。又第十九願については、観経隠顕の箇所に、
願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。(中略)二種の往生とは、一つには即往生、二つには便往生なり。便往生とはすなはちこれ胎生辺地、双樹林下の往生なり。(『真聖全』二・一五四頁)
と釈されている。又第二十願については、小経隠顕の箇所に、
願とはすなはち植諸徳本の願これなり。行とはこれに二種あり。一つには善本、二つには徳本なり。
信とはすなはち至心・回向・欲生の心これなり。
二十願なり 機について定あり散あり。往生とはこれ難思往生これなり。仏とはすなはち化身なり。土とはすなはち疑城胎宮これなり。(『真聖全』二・一五六頁)
と述べられている。いわゆる第十八願の他力念仏往生と、第十九願の自力諸行往生と、第二十願の自力念仏往生はそれぞれが三願各生ということになる。このことは『浄土和讃』の中にも「本願のこころ 第十八願の選択本願なり」「十九の願のこころなり 諸行往生なり」「二十の願のこころなり 自力の念仏を願じたまへり」と和讃に註記されて、生因三願の和讃が作成されているのである。又願底については、「これによりて方便の願を案ずるに、仮あり真あり」の真であり、「いま方便真門の誓願について、行あり信あり。また真実あり方便あり」の 真実であって、願底は第十八願の選択本願に通じているのである。

 次に「権実真仮と三願真仮」について述べる。『浄土和讃』の「念仏成仏これ真宗、万行諸善これ仮門、権実真仮をわかずして、自然の浄土をえぞしらぬ」と讃じられている。又、『愚禿鈔』の巻上に「ただ阿弥陀如来の選択本願を除きて以外の、大小・権実・顕密の諸教は、みなこれ難行道、聖道門なり。また易行道、浄土門の教は、これ浄土回向発願自力方便の仮門といふなり」といっている。二双四重の教判にあてはめると、二出(竪出・横出)二超(竪超・横超)に当り、三権(竪出・竪超・横出) 一実(横超)ということになる。この中、後者の三権一実の面をいえば、横超の第十八願だけが実であり、他の三は権であり、権を廃して実を取るという立場が権実真仮ということになる。第十八願だけが真であり実ということである。又、三願真仮は第十八願を真(真実)とし第十九願・第二十願を仮(方便)とするのである。

 次に簡非(真仮廃立)と権用(従仮入真)について述べる。簡非とは真実の第十八願を顕是とし、方便の第十九願・第二十願を簡非とする。生因三願の特色としては、信行前後の異、信楽有無の異等に分けられる。これに対して、権用は暫用還廃ということになる。方便願より真実願に入れさせる誘引のはたらきである。「化身土巻」の宗祖自喜の段(三願転入の段)には、

久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるにいまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。
果遂の誓、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。
とされるが、深く味得すべきである。これは弘誓の仏地に立った上での、悲願の願功のことをいったものである。

 最後に真仮判釈の意義について述べる。「真仏土巻」に「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」といわれている。第十八願と第十九願・第二十願との間で、はっきりとした真仮廃立がなされていないと、第十八願の信前行後や信因称報の真宗義が正しく知らされないことになる。要するに願海真仮を通して、如来の広大なる恩徳を知らされていくのである。


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