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読経意趣

平成24年

〔題意〕

 浄土真宗の法義において、往因は、他力回向の信心であり、その他の一切の衆生の造作は関与しない。したがって、読経は、往生・成仏のための追善・供養の行業ではなく、信後相続の行業である本願所誓の称名に随伴するものであり、仏徳讃嘆と報恩の意から行うものであることを明らかにする。

〔出拠〕

『仏説無量寿経(大経)』の流通分には、「たとひ大火の三千大千世界に充満せるあらんも、かならずまさにこれを過ぎてこの経法を聞 き、歓喜信楽し、受持読誦して、説のごとく修行すべし。ゆゑはいかん、多く菩薩ありて、この経を聞かんと欲すれども、得ることあたはざればなり。もし衆生ありて、この経を聞かんものは、無上道において、つひに退転せず。このゆゑにまさに専心に信受し持誦し説行すべし」(『真聖全』一・四六)とあり、『如来会』には、「経巻を読誦し受持し書写して、乃至、須臾の頃においても他のために開示し、勧めて聴聞して、憂悩を生ぜざらしむべし」(『真聖全』一・二一二)とある。この他、『仏説観無量寿経(観経)』の散善顕行縁には、「三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す」(『真聖全』一・五一)とある。

〔釈名〕

 「読経意趣」の「読経」は、経釈には「読誦」とあり、経典の文言の見・不見に拘わらず、音読するという意である。「経」は、弘願真実 の法をあらわす仏説であるが、広義においては本願の意を明らかにする疏釈等も合む。「意趣」は、心持ち・心延えという意である。したがって、「読経意趣」とは、読誦における念仏者の意許という意である。

〔義相〕

 仏教の通義において、読経とは、『観経』の散善顕行縁に、散善三福の行福として読経を挙げるように、三世諸仏の浄業であり、それは、 上求菩提・下化衆生であって、証果を得るための行業である。また、追善供養とは、己の善根を他に回向することであるが、それは、自他円融の妙理に達することにおいて、はじめて追善の道理を生じ、可能となるものである。
 宗祖は、『恵信尼消息』等から窺えるように、追善回向のための読誦経典を廃して、名号を勧められる。しかしながら、阿弥陀仏の本願力回向によって、往生・成仏せしめられる念仏者において、読経は相続行であり、名号を称する略讃を開いた広讃の意であると窺う。
 これを経釈から窺うと、『大経』には、「この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし」とあり、『如来会』には、「経巻を読誦し受持し書写して、乃至、須臾の頃においても他のために開示し、勧めて聴聞して、憂悩を生ぜざらしむべし」とあって、自行化他の意が示されているが、これらは、信後相続の行業であると窺う。
 『往生論註』の讃嘆門釈では、略讃の称名を中心とするが、「讃とは讃揚なり。嘆とは歌嘆なり」(『真聖全』一・三一四)とあって、阿弥陀仏の徳を歌い讃えるという広讃の意も存する。
 また、『往生礼讃』前序「口業讃歎門」の釈には、略讃の称名は、讃歎門から外して深心釈における所信の行とし、口業讃歎門は、三種荘厳に対する広讃として、安心の三心にもとづく起行相続行という位置づけである。
 さらに、「散善義」の就行立信釈における第四の称名は、行体としては、本願所誓の正定業であって、他の所聞となって任運に弘通するものであるという意である。読誦を含む前三後一の助業も、安心を起行においてあらわしたものであるから、称名に随伴するものであると窺う。
 この他、『尊号真像銘文』には、「即嘆仏といふは、すなわち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになると也」(『真聖全』二・五八七・『聖典全書』二・六二四)とあり、称名には阿弥陀仏の徳を讃える広讃の意もあると示されている。
 したがって、読経とは、名号を称する略讃を開いた広讃であり、信後相続の行業である称名に随伴するものとして、仏徳讃嘆と報恩の意から行われるものである。それは、自信教人信の姿であり、また、弥陀の大悲を伝えて衆生を化するという仏化助成ともなるものである。


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