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大行名体

平成21年度

〔題意〕

親鸞聖人が釈顕された大行の名義と物体をうかがい真実大行の義を明らかにする。

〔出拠〕

本典「行文類」・『浄土文類聚鈔』等。文は省略する。

〔釈名〕

@大行の「大」には大・多・勝の三義がある。

 「行文類」に大行とされる所以を「摂諸善法、具諸徳本」と明かされたのは、無量の徳をあらわしており多の義にあたり、「極速円満」は勝れた用徳をあらわし勝の義にあたり、「真如一実功徳宝海」は、広大無辺な真如にかなう性徳をあらわして大の義にあたる。

 また、「行」とは、仏果に至るための行業をいう。『法界次第初門』には「造作の心よく果に趣くを名づけて行と為す」とあり、『法華玄義』には「それ行は進趣に名づく」とあり、「行」は造作進趣をその義とする。

〔義相〕

@大行の物体

大行の体は名号であり、名号は、衆生を運載し、往生成仏せしめる。この衆生運載を造作の義とし、往生成仏せしめる力用を進趣の義とする。

 「行文類」の標挙に「諸仏称名之願」と第十七願をかかげてあるのは、十方世界の無量の諸仏によって讃嘆されている名号をもって大行とされる意である。第十七願は諸仏が弥陀の名号を称揚讃嘆されるという能讃の側に就けば、教が所誓であるが、諸仏によって讃嘆される「我名」すなわち所讃に就いて名号を所誓とし、行の願として出されているのである。

 「行文類」の標挙に「諸仏称名之願」と第十七願をかかげてあるのは、十方世界の無量の諸仏によって讃嘆されている名号をもって大行とされる意である。第十七願は諸仏が弥陀の名号を称揚讃嘆されるという能讃の側に就けば、教が所誓であるが、諸仏によって讃嘆される「我名」すなわち所讃に就いて名号を所誓とし、行の願として出されているのである。  細註に「浄土真実之行」とあるのは、「化身土文類」に説かれる浄土方便の行、すなわち自力諸行・自力念仏との区別を示し、他力の称名をあらわしているとうかがう。「選択本願之行」の選択本願とは、第十八願の別目であるから、「選択本願之行」とは「乃至十念」の称名である。標願は法体の名号をあらわし、細註は衆生の能行をあらわしていることになり、法体の名号は固然たるものではなく、常に法界に流行して衆生の「称名」となって活動していることを示している。続く出体釈に「大行者則称無碍光如来名」とあるのも同意である。

 この出体釈は、『論註』下巻の讃嘆門釈を承けているので、如実の称名を意味する。『高僧和讃』には、「如実修行相応は 信心ひとつにさだめたり」と示され、また、「称」を「はかり」と釈する『一念多念文意』には、「疑ふこころ一念もなければ」と続けられるので、「称無碍光如来名」は、信後の称名、すなわち他力信心から流出した他力の称名である。出体釈は、他力の称名において、名号の活動が語られているのである。

 続く称名破満釈や行一念釈等においても、称名で大行が語られているが、これらも法体の名号が衆生の上において、如実の称名となって活動していることを明らかにしているのである。

A本典における「行文類」の地位

 本典における「行文類」の地位は、上「教文類」を承け、下「信文類」を導く。「教文類」には真実教たる『大経』の体を名号と示され、「信文類」の信は「聞其名号」の信であり、また名号を体とする信である。

 すなわち、名号とは諸仏の所讃であり、衆生の所信であるが、釈尊の言教となって活動している名号が、そのまま衆生の信心の体となるのである。

 なお、「行文類」の地位について、本典が「顕浄土真実教行証文類」と三法で立題されていることから、教・行・証の三法組織の中の「行文類」と位置づける義がある。これは、行中摂信した行をもって往因を語り、行とは真実信心を具した弘願の称名として、外聖道諸行に対し行行相対して念仏往生の法義を明らかにするのが「行文類」の所顕であるとする義である。

 しかしながら、『本典』の構成自体は四法組織であり、「行文類」には、また「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり」といわれる等、行信が並べ挙げられている文も多く、行中摂信の説相とはうかがいがたい。よって、この義はとらない。

B第十七願の我名と第十八願の乃至十念の関係

 第十七願に誓われた「我名」、すなわち法体名号は固然としたものではなく、常に回向法として法界に流行し、衆生を往生成仏せしめるべくはたらき続けている。その名号を衆生が領受した相が第十八願の「至心信楽欲生」の信心であり、「乃至十念」の称名である。この名号を領受した信の一念に往因円満するから、それを信心正因という。

 名号が「乃至十念」と衆生の口業にあらわれるのは第二念後のことであり、正因決定後の相続行としてである。

 信後の行である「乃至十念」の称名には、二つの意味がある。一は称名の体徳よりいえば、名号全顕の称名であるから、称名即名号であって正定業である。二は称える者の意許からいえば報恩行である。第十七願に誓われた名号と第十八願の「乃至十念」の称名とは相即不二である。

C行信の関係

 本典では大行、大信と行信次第で法義が明かされている。もし大信に先行する大行が称名であるとするならば、その称名は未信位の称名であり不如実の行ということになる。信心に先行する行としては、本願成就文に「聞其名号信心歓喜」とあるように、所聞所信の第十七順位の名号でなければならない。それを「本願名号正定業」といわれたのである。たとえ称名で所信の法が語られたとしても、常に称即名と名号について立信するのである。能称について立信するならば、明らかに自力に堕し能称正因となる。

 「行文類」では信心、称名の全てが名号大行の活動相であり、衆生の往生成仏は名号の独用であることがあらわされている。「信文類」ではこの名号大行が衆生の上ではたらいて大信となり、衆生の往生成仏の正因となるという機受の極要が顕されている。よって行と信とは法と機との関係にあるというべきである。


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