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六字釈義

平成17年

〔題意〕

 南無阿弥陀仏の六字の名号の義を窺い、その名号の義は願行具足の六字、悲智円具の六字、機法一体の六字であることを解明し、他力救済の根本である名号南無阿弥陀仏の意味を明らかにする。六字の名号が衆生をよく往生成仏せしめる行体であることのいわれを明らかにする。

〔出拠〕

『観経四帖疏』の「玄義分」。『本典』の「行巻」。『尊号真像銘文』。『執持鈔』。『御文章』などの文。ここでは「玄義分」と「行巻」と『尊号真像銘文』の文を典拠とする。
・『玄義分』(真聖全一・四五七頁)

今此『観経』中十声称仏、即有十願・十行具足。云何具足。言南無者即是帰命、亦是発願回向之義、言阿弥陀仏者、即是其行。以斯義故必得往生。
・「行巻」(真聖全二・二二頁)
しかれば、「南無」の言は帰命なり。「帰」の言は、[至なり、]また帰説なり、説の字は、[悦の音なり。]また帰説なり、説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]「命」の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて「帰命」は本願招喚の勅命なり。「発願回向」といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。「即是其行」といふは、すなはち選択本願これなり。「必得往生」といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。
・『尊号真像銘文』(広本・真聖全二・五八八頁。略本・同上五六七頁)
「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり。帰命は、すなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて、召しにかなふと申すことばなり。このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。
「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて、安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。

〔釈名〕

  「六字」とは南無阿弥陀仏の名号六字のことである。
  「釈義」とは善導大師や親鸞聖人等のご解釈の意義ということである。

〔義相〕

 最初に別時意趣と善導大師の六字釈について述べる。
 別時意趣とは無着の『摂大乗論』にもとづく摂論学派(通論家)の徒が、『観経』下下品の十念念仏往生は、唯願無行であって、往生別時意説であるとして、浄土教を批判したのである。これに対して、道綽禅師は、摂論学派が『観経』の下下品の臨終の十念は、遠生の因にはなるがいまだ往生を得ることはできないと主張したのに対して、道綽禅師は十念成就は過去の宿因によったものであるから、臨終の十念成就は即生の因となるのであると会通したのである。それが「これ世尊始めを隠して終りを顕し、因を没して果を談ずる」(「隠始顕終、没因談果」)といわれて、浄土教の立場を擁護なされた。又、善導大師は道綽禅師の義をうけて、更に下下品の十声の称名には願行を具足しているから順次の往生ができるのであることを明かしたのである。こうして摂論学派の浄土教批判を論破なされたのである。「玄義分」の六字釈には、即ち「南無」は「帰命」であり、それは衆生の信心である。又「発願回向」の義もあり、「阿弥陀仏」は即ちその行であって、「発願回向」の願と「即是其行」の行とが所称の名号に具しているから、願行具足であるとした。即ち名号南無阿弥陀仏の中に願と行とが具足していると明かしたのである。『観経』の十声称仏には十願十行が具足しているから即時に往生を得ることができるのであると示された。
 次に、宗祖の六字釈を窺う。善導大師が唯願無行の批判に対しての対外的な意義をもっていたが、宗祖は六字の本質論の立場から論じられている。「行巻」の六字は三義とも約仏で釈されている。これによって悲智円具の南無阿弥陀仏の義をあらわされている。「帰命」とは本願招喚の勅命である。「必ず救うわれにまかせよ」の喚び声である。「発願回向」は、阿弥陀如来がすでに発願して衆生のものとして廻施されているのであって、如来果上の大悲心であり、ここには弥陀の悲徳がこめられている。又、「即是其行」は選択本願であって第十八願のことであり、浄土へ生まれさせる力、はたらきのことであり、ここには万行円備の智徳がこめられている。「必得往生」は不退の義であり、現益の意味として語られている。
 これに対して、『尊号真像銘文』の六字釈は約生で釈されている。「帰命」は衆生の信心であり、本願招喚の勅命に「おまかせします」ということである。「発願回向」とは信楽の義別のことであり、決定要期の上での願生心である。「即是其行」は正定の業因としての相続の称名であり、その体徳は悲智円具である。
 最後に覚如上人の『執持鈔』と蓮如上人の『御文章』の六字釈について窺う。『執持鈔』の「帰命」は信心の義であり、信楽のことである。「発願回向」は「発願」を機相とし、これは作得生想の義であり、信楽の義別である。「回向」は法徳で釈してあり、仏の悲徳のことである。「即是其行」は智徳のことであり、往生成仏の行体となっている名号のことを指している。又、蓮如上人は『御文章』に「玄義分」の六字釈の「南無」から「必得往生」まで引文している四帖の十四通目と五帖の十三通目等によって述べると、「帰命」は衆生の信心であり、たのむ機のことである。「発願回向」(仏の大善大功徳)と「即是其行」は、たすけたまうかたの法である。機と法とが一名号の上に成就されているのである。機法門の上での六字釈である。なお、「必得往生」の義は覚如上人も蓮如上人も現益の意昧であり、平生業成・入正定聚の義を示している。
 以上、六字釈義によって、名号南無阿弥陀仏の六字がわれわれ衆生をよく往生成仏せしめる行体であることの義が知らされたのである。


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