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一念多念

〔題意〕

  一念義・多念義両者の誤りを正し、念仏往生の真実義を明らかにする。

〔出拠〕

『一念多念証文』(『真聖全』二・六〇四頁)

「一念をひがごととおもふまじき事」「多念をひがごととおもふまじき事」(同・六一二頁)
といわれ、最後に
「浄土真宗のならひには、念仏往生とまふすなり、またく一念往生・多念往生とまふすことなし、これにてしらせたまふべし。」(同・六一九頁)
と結ばれている。

 『一念多念分別事』(『真聖全』二・七六六頁)

「念仏の行につきて、一念・多念のあらそひ、このごろさかりにきこゆ。これはきはめたる大事なり、よくよくつつしむべし。」
と誠め、最後に
「かへすがへすも、多念すなはち一念なり、一念すなはち多念なりといふことわりをみだるまじきなり。」(同・七六九頁)
と結ばれている。

 その他
    『本典』
    『西方指南抄』
    『口伝鈔』等がある。

〔釈名〕

「一念」は行と信とで釈名が異なる。信の一念とは、「一」は最初、「念」は時剋の義であり、「ときのきわまり」のことで、信相続に対して信初発の時を指す。行の一念とは、「一」は一遍、「念」は称念の義で、多念の称名に対して「一声」の称名をいう。今は『大経』付属の「乃至一念」であるから、「初一声」のこととうかがえる。「多念」の「多」は数量の多であり、「念」は称念の義であって一生涯相続の多念の称名をいう。

〔論点〕

(一) 一念義・多念義について

 法然上人の門下において、念仏往生の真実義を誤り、一念義の立場・多念義の立場という邪義が生じた。

 一念義とは、一声の称名または一念の信で往生の業事は成就すると偏執して、多念の称名を嫌い否定する立場のことをいう。

 多念義とは、平生に多念の称名を積むことによって、臨終に往生の業事が成弁すると偏執して、一念業成を否定する立場をいうのである。

(二)『一念多念分別事』と『一念多念証文』について

 善導大師、法然上人は一念多念を行で語られている。『西方指南抄』に「信おば一念に生ととり、行おば一形をはげむべし」(『真聖全』四・二一六頁)といい、念仏は一声までも決定往生の業と信じ、一生涯念仏を相続せよとすすめられているのである。これは、本願の文「乃至十念」の「乃至」の意味によって称名の一多を問わず能称の功をみず、ただ仏願力を仰いで一向に念仏せよと教示されたものである。

 ところで、『一念多念分別事』も称名について一念に偏執することの誤りを指摘し、一多不離相即の念仏往生を説くのである。このように、行について一多を論ずることは、いずれか一辺に執ずることの誤りを正されるのであって、ここに示される称名はその体徳についての所談であるから称名正定業の意であり、一念一無上・十念十無上、すなわち一声も往生し、多声も往生するとされるのである。

 これに対して、宗祖の『一念多念証文』はもとより『一念多念分別事』の文意を述べられたものであるが、その扱いにはおのずから異なるところがある。『一念多念分別事』の一多はどこまでも称名についてであったが、『一念多念証文』では、一念に信一念と行一念を分け、信一念の時に浄土往生が決定するという「信心正因」の義を明らかにされているのである。そして、その信心は必ず多念の称名となって一生涯相続するものとなる。また、行一念については名号の徳義を称名の初一声のところであらわされたものとされ、念々の称名は名号全現の行であるから、その徳からいえば、声々みな正定業であるから一多のどちらかに偏執して他を否定することを誠められているのである。

(三)信行一多について

 『一念多念分別事』においては、一念多念ともに行についていう。それに対して『口伝鈔』には、「一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべしといふ事」と題して、「下至一念は本願をたもつ往生決定の時刻なり、上尽一形は往生即得のうへの仏恩報謝のつとめなり。」(『真聖全』三・三三頁)といわれ、それを承けて『帖外御文章』に「他力の信をば一念に即得往生ととりさだめて、そのときいのちをはらざらん機は、いのちあらんほどは念仏すべし。これすなはち上尽一形の釈にかなへり」(『真聖全』五・三〇〇頁)と教示されている。いずれも信一行多の義を明らかにされたものである。すなわち、初起の一念に法体名号を領受してこの信は一生涯相続する。そして信心のうえから口業に流発して多念の称名となる。故に、称名は一声以後すべて多念に摂して、一念は信心にかぎる。これを信一行多という。一念の信心は往生の正因であり、多念の称名は往因円満後の報恩となる。

(四)宗祖と相承の釈義

 『口伝鈔』および『御文章』等の釈は、いずれも信一行多の義を明らかにされている。

 『口伝鈔』等は宗祖の「信心のさだまるとき往生まなさだまるなり」(『真聖全』二・六五六頁)と往生決定の時剋を信一念とされた義意を承け、また「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」といわれた文意によって、信後の多念の称名のこころもち(意許)は報恩であると示されるのである。この場合は、一念と多念を信と行とに分判し、称名は初一声であっても、信一念より後であるから、多念に属するとして称名全体を多念とされるのである。

以 上


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