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十二光義

【題意】

 阿弥陀仏の果徳である十二光の意をうかがい、これらは無碍光を中心とする衆生摂化のはたらき、すなわち名号の徳義を表したものであることを明らかにする。

【出拠】

 第十二願成就文、『讃阿弥陀仏偈』・『述文賛』・『弥陀如来名号徳』・『正信偈大意』の釈文等。

【釈名】

 十二光の十二とは、数の意であり、『大経』(魏訳)所説の光明の徳義の数をあらわす。なお「真仏土文類」では、異訳大経『如来会』(唐訳)の文を挙げ十五を数える。この他『荘厳経』(宋訳)では十三を挙げる。しかしながら、光明の徳義は無数であり、それをあらわす数には開合があるから、今は正依大経の数に依る。また十二光の光とは、阿弥陀仏の光明の意である。
 したがって、十二光とは光明の徳義を十二として示したものであるが、それらは一つの光明の徳用であり、十二の光があるという意ではない。そして、十二光は衆生済度の本源である弥陀の覚体であり、衆生をして往生・成仏せしめる「真実功徳」であるから、「誓願の尊号」すなわち名号の徳義を十二の異名であらわしたものという意である。

【義相】

一、光寿二無量の意
 光寿二無量は「真仏土文類」の標挙に光明無量・寿命無量の願名を挙げ、真仏土釈に「すなはち光明・寿命の願これなり」(二・一五五)と示して以下に二願を引証されるように、弥陀の覚体をあらわす。すなわち、光明無量は横超十方の徳用を示し、寿命無量はそのはたらきが三世竪徹することを示す。また『仏説阿弥陀経』(以下『小経』と略称)の名義段には、

舎利弗、なんぢが意においていかん。かの仏をなんがゆゑぞ阿弥陀と号する。舎利弗、かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障碍するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす。また舎利弗、かの仏の寿命およびその人民も無量無辺阿僧祇劫なり。ゆゑに阿弥陀と名づく。(一・一〇七)
と説かれる。このうち、「十方の国を照らすに障碍するところなし」とは、往生の因をなす徳用をあらわし、「かの仏の寿命およびその人民も無量無辺阿僧祇劫なり」とは、往生の果をなす徳用をあらわす。同じく『往生社讃』には、『小経』と『仏説観無量寿経』の真身観の「一々の光明は、あまねく十方世界の念仏の衆生を照らし、摂取して捨てたまはず」(一・八七) の文を合して、
かの仏の光明は無量にして十方国を照らすに障碍するところなし。ただ念仏の衆生を観そなはして、摂取して捨てたまはざるがゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる。かの仏の寿命およびその人民も無量無辺阿僧祇劫なり。ゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる。(一・九一七)
と示されている。すなわち、光寿二無量の弥陀正覚の果体は、そのまま衆生済度の本源となるという意をあらわされているのである。さらに「玄義分」には、
法蔵比丘、世饒王仏の所にましまして菩薩の道を行じたまひし時、四十八願を発したまへり。一々の願にのたまはく、もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らし。(一・六七四)
とあり、阿弥陀仏は、総じて四十八願に酬報した仏身であるが、第十八願に帰結させて示されている。また「親鸞聖人御消息」には、
第十八の本願成就のゆゑに阿弥陀如来とならせたまひて、不可思議の利益きはまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は尽十方無碍光如来とあらはしたまへり。(二・七四四、七七一、七八〇、七八二)
とあり、本願成就の果体は阿弥陀仏であるといわれるのであるから、光寿二無量の弥陀正覚の果体は、そのまま衆生摂化の徳用となっているという意である。その衆生摂化の徳用を「尽十方無碍光如来」であると示されるのは、『浄土論』の帰敬頌に「世尊、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」二・四三三)とある意を承け、願心荘厳の「真実功徳」を「尽十方無碍光如来」と示し、その徳用を無碍光に摂められているからである。

二、光明と名号の関係
 真仏土釈には「仏はすなはちこれ不可思議光如来」(二・一五五)とあり、寿命の体を光明の用に摂して弥陀の覚体を「不可思議光」と示し、「行文類」には「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」(二・一五)とあり、衆生をして往生・成仏せしめる名号を「無碍光」と示される。これらは一つの光明の徳義をあらわしたものであるから、弥陀の覚体をあらわす光明は、そのまま衆生をして往生・成仏せしめる名号の徳義をあらわすということである。この光明と名号の関係を窺うと、『往生論註』の讃嘆門釈には、

この光明は十方世界を照らしたまふに障碍あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除く(中略)かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。(一 ・四八九)
と釈し、光明の破徳と名号の破闇満願の徳用を併せて示されている。また「行文類」両重因縁釈には『往生礼讃』の光号摂化の文意を承け、
徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明・名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。(二・四九)
とある。その意は、「能生の因」としての「徳号の慈父」も、「所生の縁」としての「光明の悲母」も、ともに仏果である「報土の真身を得証」せしめる徳用があるということである。このうち、光明については、第十二願成就文に「この光に遇ふものは、三垢消滅し身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず」「至心不断なれば」「その国に生ずることを得」(一 ・三四)とあり、信心を開発・相続して得生せしめる徳用があると示される。また、名号については、第十八願成就文に「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん」「かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」(一・四三)と、受法・得益同時を示し、「行文類」には「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」(二・一九)と釈し、所称の名号に破闇満願の徳用があると示されている。したがって、光明と名号は不二であり、弥陀の覚体をあらわす光明は、そのまま衆生をして往生・成仏せしめる名号の徳義をあらわすということである。

三、十二光の徳用
 先ず、十二光の徳用を概観すると、はじめの無量光から無称光までは光徳の直顕であり、超日月光は光徳の譬顕である。光徳の直顕の内、無量光と無辺光は衆生摂化の体徳をあらわし、無碍光は以下の八光の総相として衆生摂化の徳用をあらわす。なお、徳用をあらわす無碍光は、体徳をあらわす無量光と無辺光を摂して十二光の総相ともなる。そして、衆生摂化の徳用の内、無対光と光炎王は迷いの因果を破す破徳をあらわし、清浄光・歓喜光・智慧光・不断光と、難思光・無称光は、さとりの因果となる満徳をあらわす。このうち、清浄光・歓喜光・智慧光・不断光は信心を開発し相続する徳用をあらわし、難思光・無称光は往生・成仏せしめる徳用をあらわす。
 次に、それぞれの徳用について簡潔に窺うと、一、無量光とは『讃弥陀偈』(一・五三五)に「智慧の光明量るべからず」「有量の諸相光暁を蒙る」とあり、『大意』(五・八)に「利益の長遠なることをあらはす、過現未来にわたりてその限量なし」と釈されるように、無明の闇を破す無量の智徳をあらわし、その照益が三世竪徹する意をあらわす。
 二、無辺光とは『讃弥陀偈』に「解脱の光輪限斉なし」「光触を蒙るもの有無を離る」とあり、『大意』に「照用の広大なる徳をあらはす、十方世界を尽してさらに辺際なし」と釈されるように、有無の邪見を離れしめる断徳をあらわし、その照用が横超十方にわたる意をあらわす。
 三、無碍光とは『讃弥陀偈』に「光雲無碍にして虚空のごとし」「一切の有碍光沢を蒙る」とあり、『名号徳』(二・七三一)に「ものにさへられずしてよろづの有情を照らしたまふ」「有情の煩悩悪業のこころにさへられずまします」と釈されるように、智断の二徳を体として一切を自在に潤す恩徳をあらわし、迷いの因果を破してさとりの因果となる徳用をあらわす。
 四、無対光とは『大経』(一・三三)に「諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり」とあり、『讃弥陀偈』に「清浄の光明対あることなし」「この光に遇ふもの業繋除こる」と釈されるように、迷いの因を滅する破徳をあらわし、その徳用に対する光明はないという意をあらわす。
 五、光炎王とは『大経』に「三塗の勤苦の処にありて、この光明を見たてまつれば、みな休息を得てまた苦悩なし」とあり、『讃弥陀偈』に「仏光照曜すること最第一なり」「三塗の黒闇光啓を蒙る」と釈されるように、迷いの果を滅する徳用をあらわし、その光明は無上であるという意をあらわす。
 六、清浄光とは、『讃弥陀偈』に「一たび光照を蒙れば、罪垢除こりてみな解脱を得」と釈されるように、信心を開発し転迷開悟せしめる徳用をあらわし、第十二願成就文に「この光に遇ふものは、三垢消滅し身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず」とある「三垢消滅」の意である。なお『述文賛』(二・一七八引)等には、この清浄光と歓喜光と智慧光は、三大煩悩を治する徳用があると釈されている。
 七、歓喜光とは、『讃弥陀偈』に「安楽を施したまふ」「光の至るところの処法喜を得」と釈されるように、信心を開発し法喜を得しめるという徳相をあらわし、本願成就文の「歓喜」、第十二願成就文の「身意柔軟」「歓喜踊躍」の意である。
 八、智慧光とは、『讃弥陀偈』に「仏光よく無明の闇を破す」と釈されるように、本願疑惑の闇を破し、信心の智慧を生ぜしめる断惑生信の光徳をあらわし、第十二願成就文の「善心生ず」の意である。
 九、不断光とは『讃弥陀偈』に「光力を聞くがゆゑに心断えずしてみな往生を得」とあり、『述文賛』に「仏の常光つねに照益をなす」と釈されるように、信心を相続せしめる光照不断の徳用をあらわし、信心不断であるから得生するという意をあらわす。第十二願成就文の「その光明の威神功徳を聞きて、日夜に称説して至心不断なれば、意の所願に随ひて、その国に生ずることを得」の意である。
 十、難思光とは『讃弥陀偈』に「その光仏を除きてはよく測るものなし」「十方諸仏往生を歎じその功徳を称したまへり」とあり、『名号徳』に「釈迦如来も御こころおよばず」と釈されるように、信心不断の衆生をして得生せしめる徳用をあらわし、その光徳は釈迦・諸仏にとって不可思議である意をあらわす。
 十一、無称光とは『讃弥陀偈』に「神光相を離れたれば名づくべからず」「光によりて成仏したまへば光赫然たり」とあり、『浄土和讃』の無称光讃の「因光成仏」に「光きはなからんと誓ひたまひて、無碍光仏となりておはしますとしるべし」(二・三四二)と左訓を施されていることから、衆生をして成仏せしめる徳用をあらわし、その身にそなわる果徳は光明無量の願成就の無碍光仏と同体のさとりを得しめられるという意である。
 十二、超日月光とは『讃弥陀偈』に「光明照曜すること日月に過ぎたり」「釈迦仏歎じたまふもなほ尽きず」と釈されるように、譬喩をもって光徳をあらわす。

四、十二光の総相
 総じて、無碍光の所顕を窺うと、「親鸞聖人御消息」には、

ひとびとの仰せられて候ふ十二光仏の御ことのやう、書きしるしてくだしまゐらせ候ふ。くはしく書きまゐらせ候ふべきやうも候はず。おろおろ書きしるして候ふ。詮ずるところは、無碍光仏と申しまゐらせ候ふことを本とせさせたまふべく候ふ。無碍光仏は、よろづのもののあさましきわるきことにはさはりなくたすけさせたまはん料に、無碍光仏と申すとしらせたまふべく候ふ。(二・八四八)
と示されている。無碍光は、智断二徳を体として自在無碍のはたらきをあらわす光明であり、それは迷いの因果を破してさとりの因果となるという衆生摂化の徳用であるから、十二光の総相となるという意である。また、第十二願成就文と第十八願成就文の意は同じであり、『尊号真像銘文』に「真実功徳は誓願の尊号なり」(二・六一九)と釈されるように、無碍光を総相とする「真実功徳」は、そのまま衆生をして信心開発して得生せしめるという威神功徳の名号の徳義をあらわしているということである。
 また、不可思議光の所顕を窺うと、『讃弥陀偈』では、難思光と無称光の釈意を合し、結讃に「不可思議光に南無し、一心に帰命し稽首して礼したてまつる」(一・五四八)と示されるように、願心荘厳の「真実功徳」を不可思議光に摂められている。その意は『名号徳』に、
難思光仏と申すは、この弥陀如来のひかりの徳をば、釈迦如来も御こころおよばずと説きたまへり。こころのおよばぬゆゑに難思光仏といふなり。つぎに無称光と申すは、これもこの不可思議光仏の功徳は説き尽しがたしと釈尊のたまへり。ことばもおよばずとなり。このゆゑに無称光と申すとのたまへり。しかれば曇鸞和尚の讃阿弥陀仏の偈には、難思光仏と無称光仏とを合して、南無不可思議光仏とのたまへり。(二・七三四)
と示されている。その内実は、第十二願成就文に「それしかうして後、仏道を得る時に至り」とあり、本願に「もし生ぜずは、正覚を取らじ」と誓われる意と同じである。したがって、衆生をして往生・成仏せしめるという難思・無称の不可思議光の徳用は、弥陀同体のさとりを得しめるという名号の徳義をあらわしているということである。


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