正信偈講読ノート 第11講から


第11講

ご讃題

如来所以興出世 唯説弥陀本願海
(如来が世に出られるのは、
 ただ阿弥陀仏の本願一乗海の教えを説くためである。)

今までは阿弥陀仏が招き喚ぶ意を明かしてきました。ここからは釈迦如来の勧める意を明かしていきます。まず初めに釈迦如来がこの世にお出ましになった本意を明かします。

出拠

無量寿経上巻(註釈版聖典9ページ)
如来、無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。

語句

如来
釈迦如来をさす。如来とは仏の通号で、本仏の阿弥陀仏に融通し、諸仏に融通するので如来という。「釈迦」に限定したものでなく、阿弥陀仏がそのままはたらき出でている姿であって、また阿弥陀仏の教えを説くことは諸仏の本意であることを示す。
所以
ゆえ
興出
興(おきる・立ち上がる)は出と同意。出には「出離(世間を離れ出て悟りの境界に入ること)」と「出現(仏菩薩が俗世に迷う者を救うために世間に現れること)」の意があるが、今は出現。
世間の略で、世は「隔別(へだてる・わける)」、間は「間差(差別 して存在する)」の義がある。また、世は「遷流(うつりかわる・とまらないこと)「可毀壊(こわれるべきもの)」の義、間は「間差」の義で、過去現在未来にうつりかわって毀壊されるものの差別して存在するをいう。

五徳瑞現(無量寿経が真実経であることの証明)


今日世尊 住奇特法 (尊容に現れた法を讃える) 入大寂静
今日世雄 住仏所住 (一切諸仏が住する仏の本質)
今日世眼 住導師行 (利他・慈悲の徳)
今日世英 住最勝道 (自利・智慧の徳)
今日天尊 行如来徳 (自利利他究竟の無上菩提の徳) 行如来徳

今日の世尊は「奇特法」に入住したもうゆえに、住するところの阿弥陀仏の法徳が身上に顕現したのである。その「奇特法」は一切諸仏が住したもう仏の本質で、究竟の智慧・慈悲をもってあらわされる無上菩提の徳「如来徳」である。

阿難が申し上げた。
「世尊は今日、喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、そして輝かしいお顔がひときわ気高く見受けられます。まるでくもりのない鏡に映った清らかな姿が、透きとおって見えるかのようでございます。そしてその神々しいお姿がこの上なく超えすぐれて輝いておいでになります。わたしは今日までこのような尊いお姿を拝見したことがございません。
 そうです、世尊、わたしが思いますには、世尊は、今日、
世の中で最も尊い者として、特に勝れた禅定に入っておいでになります。
また煩悩を断ち悪魔を打ち負かす雄々しい者として、仏のさとりの世界そのものに入っておいでになります。
また、迷いの世界を照らす智慧の眼として、人々を導く徳を具えておいでになります。
また、世の中で最も秀でた者として、何よりもすぐれた智慧の境地に入っておいでになります。
そしてまた、すべての世界で最も尊い者として、如来の徳を行じておいでになります。
過去現在未来の仏がたは、互いに念じてあわれるということでありますが、今、世尊もまた、仏がたを念じておいでになるに違いありません。そうでなければ、なぜ世尊のお姿がこのように神々しく輝いておいでになるのでしょうか?」

「今日」は無量寿経を説く釈尊。
「他日」は他の経を説かれる釈尊。
「今日」は阿弥陀仏の徳と融通し、無量光の徳が顕現した姿。
「他日」は本地の徳を隠した姿。
「今日」の説法は仏の本意にかなった随自意真実法。
「他日」の説法は鈍根の衆生に応じて説いた随他意方便法。
光闡道教と真実之利
光闡道教は聖道八万四千の教。
真実之利は弥陀名号法。
・光闡道教には欲の字がかからない。
・経道には滅尽するものと止住するものがある。(弥勒付属)

語句

唯説
唯は簡持の義。聖道八万四千の法は出世の本意に非ずと簡び、弥陀の 法は出世の本懷なりと持つ。
本願
五願を全うずる第十八願。
本願の深広なるを喩える。
行文類 一乗海釈 (註釈版聖典197頁)
「海」といふは、久遠よりこのかた凡聖所修の雑修・雑善の川水を転じ、逆謗闡提・恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実・恒沙万徳の大宝海水と成る。これを海のごときに喩ふるなり。
→利鈍を嫌わない救い

利井鮮妙師

問。高祖は今の二句に釋迦出世の本意弥陀の本願にありとのたまわれども、此の二句の所依たる『大経』の文を見るに「如来世に出興する所以は道教【聖道八万四千の法門のこと、『大経』三丁左序分に「普現道教」と云うが故に、この道教は八相作佛の道教なれば、聖道法なること明かなり】をも光闡し、眞實之利【弥陀の名号法なり、五徳安住の所問を答ふるが故に、而して次に、今爲汝説とて眞實之利を大経一部に説くが故に】をも説かんが為と云う意に非ずや。高祖何の見る所ありて「唯説弥陀本願」とのたまふや。
 答。『大経』の文を熟視するに、欲の字、道教の下にありて上の所以とに組み合うが故に、世に興出して道教を光闡する所以は眞實之利を以て群萠を恵まんと欲するにありと云うことになる。喩へば富権者の所に出頭して、先づ猫をほめ而して後に金を借りることを願ふ。之は出頭する所以は猫をも賞め、金を借りるに非ず。出頭して猫をほむる所以は金を借んが爲なりと云うが如し。高祖此の意を得て、唯説弥陀本願海とのたまふものなり。
 問。爾らば道教を出さずとも可なるべし、如何。
 答。道教を出すもの、二由あり。一には簡非の爲の故に、今正信偈の唯説此の意なり。二に權方便の義を顯はさんが爲の故にる『口伝鈔』五十一丁「月まつまでの手つさみなり」とのたまふ。此意なり。
 問。『法華経』に「爲大事因縁故出現於世」と云う。一佛の出世に両本懷は成ずべからず。何れを以て実の本懷とするや。
 答。『六要』一、三十一丁右「一に教の権実に約す=二に機の利鈍に約す。『般舟讃』等と二義を以て分別したまふ。曰聖道中にありての出世本懷は、法華にあるべし。阿含・方等の二乘法華に至って成佛の記別を授くるが故に。是は法華の所談を上げんものにして、聖道教中の權實相望に約す。故に「是法華意」とのたまふ。(是れ第一約教權實義)爾るに若し聖淨惣じて機の利鈍に約するときは、法華も彌陀法の爲の權教となりて、出世の本意は独り彌陀法に歸するなり。何となれば佛の大悲は苦者にあり、『法華問答』末(三十一丁)に『涅槃經』を引いて、父母七子あり一子病にあえば、父母の心乃ち病苦の子にありとは、即ち是なり。爾るに法華は機に利鈍を立て利根は一念頓悟(即)鈍根の機は三祇無量劫(漸)を説くと談ず。爾れば今日の愚凡の能はざる所なり。已に爾れば機の利鈍に約して論ずれば、法華に漏るゝ機あり。既に漏るゝ機あるときは如何に法華が一乘を談じても理談となりて、終に權教となる。【彌陀法に対する權教となる】爾るに彌陀法は、法華の救う能はざる鈍根無智の機を救い利鈍兼濟なるが故に、実の本懷は彌陀法にあり。知るべし。

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第12講

ご讃題

五濁悪時群生海  応信如来如実言
(五濁悪時の群生海 如来如実のみことを信ずべし)

お釈迦さまがこの世にお出ましくださった本来の目的は、「阿弥陀仏の教えを信ずるべきですよ」と勧めるためでした。

五濁

「劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁」といわれるような濁 りに満ちている状態にあること。どうしようもない無秩序な乱世を表す言葉。
濁とは滓穢(さいえ。倶舎論)。滓は「かす」。人々が生活をしていると悪行の滓がたまって世界が濁ってくるということ。

以下引用の典拠は次のように略記します。
〈疏〉善導大師 『観経疏』序分義
〈讃〉親鸞聖人 『正像末和讃』
〈草〉御草稿和讃 左訓(真聖全五、三六)

劫濁

『瑜伽論』に住劫絶滅の初め人寿八万歳にして、それより百年に一つずつ減じて遂に人寿十歳になるとあり。その人寿二万歳より五濁世という。

〈疏〉
しかるに劫は実にこれ濁にあらず、劫減ずる時に当りて諸悪加増す。
<讃>
数万歳の有情も
 果報やうやくおとろへて
 二万歳にいたりては
 五濁悪世の名をえたり
〈草〉
数万歳・・・ 命長くありし正法も漸く命短くなり下るなり
二万歳・・・ 人の命二万歳といふよりは

 劫は分別時節。時間の経過そのものには濁りはないが、時代を構成している私たちの濁りで時代そのものが濁っていること。残りの四つの濁りを持っているので五濁全体を包括する。
 疫病、飢饉、戦争などが起こる乱世

見濁

真理に背くよこしまな見解がはびこり、正しい道理が覆い隠されている状況。

〈疏〉
自身の衆悪は総じて変じて善となし、他の上に非なきをば見て是ならずとなす。
〈讃〉
有情の邪見熾盛にて
 叢林棘刺のごとくなり
 念仏の信者を疑謗して
 破壊瞋毒さかりなり
〈草〉
熾盛・・・ さかりなり
叢林棘刺・・・ くさむら・はやしの如く、むばら・からたちの如く煩悩悪まさるべしとなり
疑謗・・・ うたがふ、そしる
破壊瞋毒・・・ 破り、亡し、いかりをなすべし

煩悩濁

 真理を知らず、すべてを自己中心的に見ていく無知(愚痴)によって、自分にとって都合のいいものには愛欲(貪欲)を起こし、都合の悪いものには憎悪(瞋恚)を燃やしていく心の濁り。

〈疏〉
劫もしはじめて成ずる時は衆生純善なり、劫もし末なる時は衆生の十 悪いよいよ盛りなり。
〈讃〉
無明煩悩しげくして
 塵数のごとく遍満す
 愛憎違順することは
 高峯岳山にことならず
〈草〉
塵数・・・ 煩悩悪業まさりて塵の如く世に満ちみつなり
愛憎違順・・・ 欲の心、そねみねたむ心、たがふ心まさるなり
高峯岳山・・・ 高き峯・おかに悪の心を喩へたり

衆生濁

道義的な頽廃によって精神も体力も衰弱し、無気力な状態になり、苦悩ばかりが深くなること

〈疏〉
当今の劫末の衆生悪性にして親しみがたし。六根に随対して貪瞋競ひ 起る。
〈讃〉
劫濁のときうつるには
 有情やうやく身小なり
 五濁悪邪まさるゆゑ
 毒蛇・悪竜のごとくなり
〈草〉
身小・・・ 人の身小さくなり
悪邪・・・ 悪業のまさるなり
毒蛇・悪竜・・・ 人の心悪のまさること、悪龍・毒蛇のやうになるなり

命濁

生き甲斐を感じられなくなり、寿命が次第に短くなっていくこと
不衛生、殺生によっていのちを短くしていること。中夭は命が中折れすること。

〈疏〉
前の見・悩の二濁によりて多く殺害を行じて、慈しみ恩養することな し。
〈讃〉
命濁中夭刹那にて
 依正二報滅亡し
 背正帰邪まさるゆゑ (をこのむゆへ)
 横にあだをぞおこしける
〈草〉
命濁・・・人の命短くもろし
滅亡・・・ ほろぼしうしなう 人の命もてる物も亡びうすべし
背正帰邪・・・ 正しきことを背むき、ひがごとをたのむこゝろなり
横・・・ よこさまなる心のみあるべしとなり、五濁の世の有様なり

語句

鮮妙師
○惡時とは、五濁即悪時にして五濁の盛んなる時を悪時と云う。
○群生とは、群は群類の義、數多の義を顯はす。衆生の數多なることを群生と云う。
○海とは、衆生の無量なることを喩ふ。下に凡聖逆謗とは、これ其の相なり。
○應信とは、信受すべきことを命ずるの言なり。
○如來とは、釈尊なり。如來所以等の如來をうくるが故に。
○如實言と、眞實語と云う、釈尊の眞實語を信ぜよとすゝめたふものなり。


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第13講

ご讃題

能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
(よく一念喜愛の心を発すれば
煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり)

信心の利益 科段

証大涅槃の益 能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
上下無差の益 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味
心光摂護の益 摂取心光常照護 已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
横超悪趣の益 獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣
教主歎誉の益 一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願
仏言広大勝解者 是人名分陀利華

出拠

能発一念喜愛心 『無量寿如来会』(下)[菩提流志訳]第十八願文(註釈版212)

「他方の仏国の所有の有情、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば、願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間、正法を誹謗し、および聖者を謗らんをば除く」

不断煩悩得涅槃 『往生論註』(下)[曇鸞大師](註釈版七祖篇111)

「すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。」

御自釈

『尊号真像銘文』(註釈版672)

「能発一念喜愛心」といふは、「能」はよくといふ、「発」はおこすといふ、ひらくといふ、「一念喜愛心」は一念慶喜の真実信心よくひらけ、かならず本願の実報土に生るとしるべし。慶喜といふは信をえてのちよろこぶこころをいふなり。「不断煩悩得涅槃」といふは、「不断煩悩」は煩悩をたちすてずしてといふ、「得涅槃」と申すは、無上大涅槃をさとるをうるとしるべし。

文意

不能に対する

発起。『善導讃』(草稿本。真聖全五、二九)「釈迦弥陀は慈悲の父母」発起の左訓に

「ひらきおこす たておこす 昔よりありしことをおこすを発といふ、今初めておこすを起といふ」
発はすでに与えられているものが出てくることをいう。

利井鮮妙師
●即ち生死罪濁の群生、何ぞ淨信を起すことを得ん。爾るに今能發するものは偏に他力によるなり。

稲城選恵師
●開発と閉塞
●「まことにもてたからの山にいりて手をむなしくしてかへらんににたるもの歟」(御文章四帖目三通)
→自らの無関心によって拒絶
●自力は自分が先  他力は本願成就が先

一念

◆時剋釈
「それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。」(註釈版250)
→初起の一念は信心歓喜の極促の一念なることを顯はす。
△延促対 初際と相続
△奢促対 おそし、とし

◆信相釈
「一念といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。」(註釈版251)
→一念即信心【一念】歡喜【喜愛心】なることを顯はす。

喜愛心

喜愛心とは歓喜のことで、初起と後続の両方にある。

◆初起
「一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。(信文類註釈版250)
「一念慶喜の真実信心よくひらけ、かならず本願の実報土に生るとしるべし。慶喜といふは信をえてのちよろこぶこころをいふなり。」(尊号真像銘文 註釈版672)

◆後続
「信心歓喜といふは、すなはち信心定まりぬれば、浄土の往生は疑なくおもうてよろこぶこころなり」(御文章3帖目6通)
いまは、宗祖の御自釈によって初起とする。

利井鮮妙師

初起の歡喜とは、信心のつやぶりにして、他力の信心は往生の大果を決定し、疑いなく大安堵したるの信なるが故に、无疑のところに歡喜の光澤あり。猶、玉に光澤あるが如く、花に香あるが如し。

村上速水師

「かならず本願の実報土に生るとしるべし」
この文が「能発一念喜愛心」の下にある。信の一念に浄土往生の因が決定することを示す。「得涅槃」「無上大涅槃を得る」のは「本願の実報土」においてであることを示していると言えよう。

不断煩悩得涅槃

仏教は煩悩を断じて涅槃を得るのが通規であります。煩悩即菩提とか 生死即涅槃とかいうものは、仏のみが知りうる世界です。
機の深信(不断煩悩)
煩悩成就せる凡夫人、煩悩具足せるわれらが煩悩を断ち捨てずして
法の深心(得涅槃)
かならず本願の実報土にむまる 無上大涅槃にいたるなり
信知
信後の状態が涅槃であるはずだという理論ではなく、私自身の上に知らされていくことがら。一瞬一瞬現前のできごと。

参考

浄満院圓月師
不断は衆生に約し、断は仏に約す
宣布院覚音師
約法より云ふときは煩悩ことごとく断滅して証果を得しめたまふ。しかるに約機より云ふときは、自力の功をもっては一毫未断のゆゑに不断煩悩得涅槃なり。
願海院義山師
不断は機の無作を云ふ。自力の伏断を労せざるがゆゑなり。もし法徳に約すれば、また一々断破するなり。
専精院鮮妙師
機上の顕相に約すれば一毫未断惑なれども、もし法徳の密益に就かば三世の業障断滅せざるはなし。〜衆生よりしては疑惑無明一塵も断除するあたはず。仏力よりしては顕益密徳全分消滅する。
○不斷煩惱得涅槃とは、信の利益を顯はす。『銘文』(六十丁)に此句を釋して「煩惱具足せるわれら、无上大涅槃にいたるなりと知るべし」とのたまふ。爾れば此の一念喜愛の心は臨終一念の夕べまで煩惱を斷ぜさるものをして大涅槃を得せしむるなりと、此土不斷、彼土得涅槃の義を顯はしたもう。爾れば不斷煩惱は臨終までの有り様を顯はしたるものなり。
 問。法斷機不斷を顯はすものに非ずや。
 答。不斷煩惱を機相とし、法徳は斷と談ずる辺あれども、今は『銘文』の御自釋、明に當益に約するが故に、不斷煩惱は臨終までの有り様を云うたものなり。
 問。『銘文』には、得涅槃の句を釋し彼土の證果としたまふ。『正信偈大意』(十二丁)に、この文を釋して「願力の不思議なるがゆゑに、わが身には煩悩を断ぜざれども、仏のかたよりはつひに涅槃にいたるべき分に定まるものなり」とのたまふ。これ此土の益とす。此義云何。
 答。『大意』は全く『六要』のまゝを承く。『六要』二末に此文を釋して、分滿【分滿とは當り前は、分は一分にして正定、滿は滅度なり。爾るに『六要』は鸞師によりて分を彼土正定、滿を滅度とす】を立て「分は初生に約す、若し究竟に約せば宜く此の字を略すべし、或は又七言の字數を調へんが為に之を除に失無し」【分の字のあるこゝろ】と云う。而して『大意』は分の字ある意を以て今偈を解したもう。『寶章』五帖獲得章、又爾り。之れ正信偈當分に非ず。隨義轉用と云うべし。今は『銘文』の釋意によりて正しく当益とす。

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