正信偈講読ノート 第1講から第10講


第1講

ご讃題

しかれば大聖(釈尊)の真言に帰し、
大祖(七高僧)の解釈に閲して、
仏恩の深遠なるを信知して、
「正信念仏偈」を作りていはく、
無量寿如来に帰命し、
不可思議光に南无したてまつる。
【浄土真宗聖典註釈版202頁】

そこで、釈尊のまことの教えにしたがい、また浄土の祖師方の書かれたものを拝読して、仏の恩の深いことを信じ喜んで、次のように「正信念仏偈」を作った。
限りない命の如来に帰命し、思いはかることのできない光の如来に帰依したてまつる。

基礎知識コーナー

著者 親鸞聖人
出典 『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』の『行文類』

身近なQ&A

Q.正信偈はいつからお勤めされるようになったのですか?
A.1473(文明5)年に蓮如上人が「念仏・和讃」とともに日常の勤行として定められました。
Q.正信偈はなぜ書かれたのですか?
A.ご自身のよろこびを人に伝えるためです。親鸞聖人が法然上人に弟子入りし、念仏の教えを聞いていた頃から、何度も念仏が禁止されるようになりました。そんな中で親鸞聖人は、恩師法然上人の念仏往生の教えこそ真実の仏道であることを明らかにするため『教行信証』を書かれたのです。その中の『行文類』のおわりに信心のよろこびを偈にされたのが「正信念仏偈(正しく念仏を信ずる偈)」です。

正信偈の内容

依経段 総讃 帰命無量寿如来 南無不可思議光
別讃 阿弥陀仏の願い 法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方
普放無量無辺光 無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照
本願名号正定業 至心信楽願為因
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
お釈迦様の勧め 如来所以興出世 唯説弥陀本願海
五濁悪時群生海 応信如来如実言
能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味
摂取心光常照護 已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣
一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願
仏言広大勝解者 是人名分陀利華
弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難 難中之難無過斯
依釈段 総讃 印度西天之論家 中夏日域之高僧
顕大聖興世正意 明如来本誓応機
別讃 龍樹章 釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺
龍樹大士出於世 悉能摧破有無見
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽
顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩
天親章 天親菩薩造論説 帰命無碍光如来
依修多羅顕真実 光闡横超大誓願
広由本願力回向 為度群生彰一心
帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
遊煩悩林現神通 入生死園示応化
曇鸞章 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦
天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
往還回向由他力 正定之因唯信心
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃
必至無量光明土 諸有衆生皆普化
道綽章 道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
万善自力貶勤修 円満徳号勧専称
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果
善導章 善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪
光明名号顕因縁 開入本願大智海
行者正受金剛心 慶喜一念相応後
与韋提等獲三忍 即証法性之常楽
源信章 源信広開一代教 偏帰安養勧一切
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
源空章 本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人
真宗教証興片州 選択本願弘悪世
還来生死輪転家 決以疑情為所止
速入寂静無為楽 必以信心為能入
総結勧信 弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪
道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説

題号「正信念仏偈」の意味

  1. 「正信」
    存覚上人『六要鈔』(真聖全2-266)
    問。「正信偈」とは是何の義ぞや。答。「正」とは傍に対し邪に対し雑に対す。「信」とは疑に対す。今は是行に対す。所行法に就いて能信の名を挙ぐ。

    宗教の3つのパターン

    親鸞聖人の著書は アインシュタイン
    真実 顕浄土真実教文類
    顕浄土真実行文類
    顕浄土真実信文類
    顕浄土真実証文類
    顕浄土真仏土文類

    第十七願
    第十八願
    第十一願
    第十二・十三願
    宇宙の宗教
    権仮 顕浄土方便化身土文類本 第十九願・二十願
    聖道門
    道徳の宗教

    邪偽 顕浄土方便化身土文類末 邪偽
    外道
    恐怖の宗教
    [邪偽の宗教]
    教行信証ではインドの外道と中国の道教が挙げられています。
    ・外道 仏教以外の誤った見解。星占いなど
    ・道教−陰陽五行説−日の吉凶
    仏教と外道の違いは自らの運命を支配するものを外に求めるか内に求めるかです。自らの不幸の原因を外に求めていくものが邪偽の宗教です。日の吉凶や方位、姓名判断、死者の霊のたたり、4の数字をさけること、自然を神格化。
    これらに対して仏教は内にこえていく道を明らかにします。
    [権仮の宗教]
    『七仏通戒偈』
        諸悪莫作    諸の悪はなすことなかれ
        衆善奉行    衆善は奉行せよ
        自浄其意    自らその意を浄らかにす
        是諸仏教    これもろもろの仏の教えなり
     これは仏教全般に通ずる言葉です。
     「できるものはすくわれる」という救済方法の仏教を親鸞聖人は、この権仮の宗教と見ます。無量寿経で言えば第十九願と第二十願にあたります。
    [真実の教え]
     無量寿経の第十八願の教えのことです。第十八願とは
    設我得仏 十方衆生 至心信楽欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法
     「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れざれば正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法を除く」
  2. 「念仏」
        ここでは称名念仏のことを言います。
  3. 「偈」
        うた。文字数をそろえ、こころを伝えるものを偈とも偈頌ともいいます。

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第2講

題号「正信念仏偈」の意味 ver.2

2 念仏 のつづき

「念仏」の意味を考えると、法体・心念・口称の3つが挙げられます。

@法体
念仏とは六字名号のこと。念=南无。仏=阿弥陀仏
  (例)『善導讃』80
「真宗念仏ききえつつ
 一念無疑なるをこそ
 希有最勝人とほめ
 正念をうとはさだめたれ」
A心念
 仏の教えをこころにいただくこと。
 念=心念。仏=所念の法
  (例)『御一代記聞書』末179
   「聖人(親鸞)の御一流には弥陀をたのむが念仏なり。」
B口称
 念=称念。仏=南无阿弥陀仏
 口に「南无阿弥陀仏」を称えること。
  (例)『御文章』「念仏すべきものなり」とたくさんある
正信念仏偈の念仏はBの南无阿弥陀仏と口に称えることです。 なぜでしょう?
 正信(信)念仏(行)の順番だからです。
浄土真宗の「行・信」の扱いに、2種類あります。もともとこれは「教・行・証」のうちの「行」を開いて「行と信」となっているのですが、厳密に言うと「行信」「信行」という言い方で行の意味が異なります。

行信次第

第十七願 我名 所行
第十八願 三信 能信

法体回施に約す
行信の場合は「仏さまから南无阿弥陀仏が届く様子」を明らかにします。行は仏さまのはたらきのことで、大行といいます。お釈迦さまをはじめたくさんの仏さまがたが、南无阿弥陀仏の名を誉め讃えます。この声が私に届けられていることを顕しています。

信行次第

第十八願 三信 能信
第十七願 十念 能行

衆生の機受に約す
信行の場合は「届いた南无阿弥陀仏が私の上に現れる様子」を明らかにします。何ものにも障げられずに私の心の根底に届いた南无阿弥陀仏が、私の往生のたねになり、口に一声一声あふれでてくる様子です。

この「正信念仏偈」の念仏は、信の後にありますので、私たちが 口に称えることで、報恩感謝のおもいが口に現れたものです。

問い お念仏をしたり、お経を読んだりすることで仏やご先祖様がよろこぶと思いますか?
答え 『蓮如上人御一代記聞書』本

(11)
一、十月二十八日の逮夜にのたまはく、『正信偈』・『和讃』をよみて、仏にも聖人(親鸞)にもまゐらせんとおもふか、あさまし や。他宗にはつとめをもして回向するなり、御一流には他力信心 をよくしれとおぼしめして、聖人の『和讃』にそのこころをあそばされたり。ことに七高祖の御ねんごろなる御釈のこころを、『和讃』にききつくるやうにあそばされて、その恩をよくよく存知し て、あらたふとやと念仏するは、仏恩の御ことを聖人の御前にてよろこびまうすこころなりと、くれぐれ仰せられ候ひき。
(32)
一、のたまはく、朝夕、『正信偈』・『和讃』にて念仏申すは、往生のたねになるべきかなるまじきかと、おのおの坊主に御たづねあり。皆申されけるは、往生のたねになるべしと申したる人もあり、往生のたねにはなるまじきといふ人もありけるとき、仰せに、いづれもわろし、『正信偈』・『和讃』は、衆生の弥陀如来を一念にたのみまゐらせて、後生たすかりまうせとのことわりをあそばされたり。よくききわけて信をとりて、ありがたやありがたやと聖人(親鸞)の御前にてよろこぶことなりと、くれぐれ仰せ候ふなり。

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第3講

依経段 総讃

無量寿如来に帰命し、
不可思議光に南无したてまつる。

南无阿弥陀仏

正信偈はこの2句に摂まります。
両句ともに「南无阿弥陀仏」と同じ意味です。

原語 ナモ アミターユス
アミターバ
ブッダ
音写 南无 阿弥陀
訳語 帰命
南无
無量寿
不可思議光
如来

「人生のすべてを阿弥陀さまにおまかせします」
宗祖自身のお気持ちであり、また私たちに勧める姿でもあります

【出典】

帰命無量寿如来は善導大師『玄義分』

「南无阿彌陀佛者又是西國正音〈乃至〉故言歸命無量壽覺」
覚の字を如来に換えてあるのは、7字に整えるためです。
南無不可思議光は龍樹大士『讃阿弥陀仏偈』
「南无不可思議光、一心帰命稽首礼」
による。

南无 帰命

1 英訳
nam = to bend or bow, subject or submit one's self.
namas = bow, obeisance, adoration.
(M.William "Sanskrt-English Dictionary")

2 浄土諸流とのちがい

帰投身命(浄土宗鎮西派)
自らの身命を阿弥陀如来にささげて救いを請う  
『三部仮名鈔』『帰命本願章』
 「南无といふは即ちこれ帰命とのたまへるも南无といふはたすけたまへといふことばと釈するなり。……しかれば南无阿弥陀仏ととなふるはたすけたまへ阿弥陀仏といふことばなり」
帰還命根(浄土宗西山派)
 迷いの命を捨てて阿弥陀如来の悟りの命に帰る意。
 自らの命は十劫の昔に既に往生している無量寿であるとさとること。
『竹林鈔』(顕意著)巻上
 「命を帰すとは何なる義ぞや、答う、たとえば流を源に帰せんが如し、一切衆生曠劫流転の生死無常の命は本よりこれ諸仏の果徳、涅槃常住の無量寿なり。しかるを仏は衆生の命は即ち無量寿なりと覚て、帰するものあれば摂取して捨てず。親く近く碍りなき智願力を成就し給へり。衆生は自ら迷倒して願力の無碍道を知らず、無量寿の外に我らが命ありと思て、徒らに生じ、徒らに死して、曠劫に流転して苦海に沈む。
 今釈尊の遺教に値ひ、弥陀の願意を聞く時、日来の迷を捨てて、仏智の覚に帰すれば命を無量寿に帰すともいふなり。迷を翻して本家に帰るとも説くなり、……」
帰順勅命(浄土真宗)
 「必ず救う、我にまかせよ」という阿弥陀如来の勅命に帰順(したがう)する意。こちらからはたらきかける必要のない、他力の信心のこと。

阿弥陀 無量寿 無量光

1 無量寿経 第十二願・第十三願

(12) たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ。
(13) たとひわれ仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下、百千億那由他劫に至らば、正覚を取らじ。
2 阿弥陀経
  『阿弥陀経』名義段(註釈版123)
「舎利弗、なんぢが意においていかん、かの仏をなんのゆゑぞ阿弥陀と号する。舎利弗、かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障碍するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす。また舎利弗、かの仏の寿命およびその人民〔の寿命〕も無量無辺阿僧祇劫なり。ゆゑに阿弥陀と名づく。舎利弗、阿弥陀仏は、成仏よりこのかたいまに十劫なり。」
異訳の玄奘訳『称讃浄土経』も同様に「無量寿」「無量光」の訳
光明無量……十方の国を照らすに障碍するところなし
寿命無量……およびその人民〔の寿命〕も無量無辺阿僧祇劫なり
  ※阿僧祇劫 計ることも数えることもできないほど、途方もなく長い時間
光明無量も寿命無量もともに衆生にはたらきかけてあります。

3 宗祖の受け止めかた
 天親菩薩は『願生偈』に阿弥陀経の釈を承けて「帰命尽十方無碍光如来」と釈される。また、善導大師は『往生礼讃』にこの名義段と『観経』の「念仏衆生摂取不捨」を合わせて釈される。
 宗祖はこれを承けて『浄土和讃』「阿弥陀経讃」に

「十方微塵世界の
  念仏の衆生をみそなはし
  摂取してすてざれば
  阿弥陀となづけたてまつる」(註釈版571)
といわれる。
この和讃の草稿本の「摂取」の左訓に
「ひとたびとりてながくすてぬなり、せふはもののにぐるをおわえとるなり、せふはおさめとる、しゆはむかえとる」
とある。このように阿弥陀仏の光明と寿命はそのまま衆生にはたらきかけられてある。

 尽十方無碍光如来といわれるように、阿弥陀仏は超越的に彼方にあるのではなく、衆生が求めるより先に既に与えられている。


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第4講

Q&A(利井鮮妙和上述 現代語訳:山上)

問 帰順(したがう)の対象は名号か?仏の体か?
答 名号。その名号は「南无」の名と「光寿」のいわれとが相応したものである。『六要鈔』二末(二十四丁左)に
「先づ寿命・光明の尊号を挙げて帰命の体と為す」とある。
問 阿弥陀仏の持っている徳のいわれと、名前(名号)とが相応して いるというのはどうして言えるのか?
答 『阿弥陀経』に光明無量・寿命無量の故に阿弥陀と名付ける〈取意〉といわれるからである。阿弥陀の名は光明無量・寿命無量のいわれがそのまま名となっている。
 無量寿とは阿弥陀仏の寿命が過去現在未来を超越して生まれたり滅したりしないことをいう。即ち不生不滅で、変化せず価値が変わらない。
 如来とは、如(真如平等)より来生することをいう。『証巻』に「従如来生」とある。
 不可思議光とは、十二光中の難思光の意で、私の往生せしむるはたらきは思議できるものではないことを顕す。十二光はそれぞれ互いに融和するので、難思光の一を挙げて、残りの十一光を摂める。
問 光と光が融和するなら、無称光でもよかろう。どうして難思光を 挙げるのか?
答 無量寿というものがらに対して、光明というはたらきを顕すのに ピッタリだからである。和讃に「無碍光仏のひかりには、清浄歓喜智慧光、その徳不可思議にして、十方諸有を利益せり」といわ れる。「徳」とは、徳用(はたらき)の意味である。
問 阿弥陀仏の徳は無量である。なぜ二つを挙げるのか?
答 一には大悲の本源なるがゆえに。『正像末和讃』に「超世無上に摂取し、選択五劫思惟して」と、阿弥陀仏は衆生に代わって五劫の願行を修して完成された。その根本は衆生に我とおなじ光寿二 無量の仏果を得させるためである。
二には横にも竪にも利益を放つからである。光明は横に十方に遍じて、寿命は竪に三世(過去現在未来)を貫く。十方三世に利益するから特に光明・寿命の二徳を出されたのである。
問 光寿二無量の徳は一切の諸仏みんな同じじゃないか。阿弥陀仏の特有なものか?
答 阿弥陀仏の光明には障碍がない。寿命は「及其人民」と衆生に届く。諸仏の場合は光明も寿命も無量を得ているが、衆生の上でそれができあがっているわけではない。阿弥陀仏は仏の側でも衆生 の側でも隔てなく無量の徳を完成しておられる。
問 願文第十二・十三願、『小経』名義段、『和讃』【「光明寿命の誓願 を」】等は、光寿の順番である。正信偈は寿光の順である。違いはあるのか?
答 光寿の順は衆生を救う姿である。光明で衆生を摂め取り、闇を破り、寿命無量に仕上げるからである。
寿光の順のときは讃歎する姿である。寿命無量のものがらをほめて、次に光明のはたらきをほめ讃える。『大経』に「このゆゑに無量寿仏をば、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王 光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す。」とあるのがこの順で、讃歎の形を取っている。
いま、正信偈は讃歎の順番になっている。帰命・南无とは梵語漢語の違いであって、共に信心である。
問 梵語と漢語を並べて挙げてあるのはなぜか?
答 元来、梵語「ナモ」には「救我度我(私を救ってください。私を悟りの世界に渡してください)」という意味と、「帰命」の意味とがある。今はただ「帰命」の意味だけであることを顕そうとされたのである。帰命は信順という意味で、決して祈願祈求の意味で はない。帰は帰順、命は勅命。またこれに三つの味わい方がある。
一つには法の側で語る。「命に帰せよ」と読む。『行文類』「帰命は本願招喚の勅命也」がこれにあたる。二つには私の側で語る。「命に帰す」と読む。『御文章』に帰命を和訓して、「たすけたま へ」と釈されたのがこれにあたる。
問 「たすけたまへ」というのは祈願じゃないのか?
答 そうではない。「たすけたまへ」とは、「たすける」という仏の勅命に対して、「たまへ」と信順するこころである。『御裁断御書』には「たすけたまへとは、たゞこれ勅命に信順するこゝろなり」とある。祈願請求の意味ではない。
三に機法合釈。『尊号真像銘文』に「帰命はすなはち釈迦弥陀二尊の勅命にしたがひ、めしにかなふとまうすこころなり」とある。「勅命にしたがひ」というのが法(仏)に寄せた見方で、「めし にかなふ」というのが機(私)に寄せた見方である。

善導大師の六字釈

善導大師のおられた中国浄土教の中心は『観無量寿経』であった。 その理解の仕方が善導大師は他の諸師と異なっていた。
 『観経』下下品には、一生涯悪を造ってきた者が、臨終に十声の称名念仏によって浄土に往生すると説かれてある。中国浄土教の主な流派の「摂論学派」では、この称名念仏は「浄土に生まれたい」という願望を口にしただけの意味しかなく、浄土に生まれさせるだけの力やはたらきを具えていないと理解した。唯願無行 であって称名念仏一行の往生を否定した。これに対する反論が善導大師の六字釈(南无阿弥陀仏の解釈)であった。

『観経疏』玄義分
「今この観経の中の十声の称仏は、即ち十願十行有りて具足す。いかんが具足する。南无と言うは即ち帰命なり。亦是発願廻向の義なり。阿弥陀仏と言うは即ち是其の行なり。斯の義を以ての故に必ず往生を得と。」
南无 阿弥陀仏
帰命
発願廻向
南无
=帰命(仏のおおせにしたがうこころ)
=発願廻向(浄土への往生を要期するおもいが、帰命のこころにそなわっていること)
阿弥陀仏
=行(浄土に生まれさせる力・はたらき)
四字に衆生を浄土に往生せしめる行徳が満足されてあり、それが衆生が往生する因となる行である。

称名念仏に願行具足を明らかにされたのではなく、あえて名号について願行具足を明らかにされた。(これが後に絶対他力の法門を確立していくきっかけとなっていく。)

宗祖の六字釈

1.仏さまの立場から見た六字

善導大師は二字と四字に分けて解釈されたが、宗祖は南无阿弥陀 仏の六字全体を@帰命A発願廻向B即是其行と解釈された。

『行文類』六字釈
「しかれば、南无之言は帰命なり。……中略……是を以て帰命は本願招喚の勅命なり。………@
発願廻向というは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまうの心なり。………A
即是其行というは、即ち選択本願是なり。………B」
  @帰命=本願招喚の勅命
南无阿弥陀仏は仏から私へのよびかけである。
「必ず救う、われにまかせよ」という如来のこころがそのままよびかけになっている
  A発願廻向
仏が願いを発し、私に差し向けられる(回向)こと。
法蔵菩薩が私を救うために願いを発して、私を浄土に往生させる行を完成させ、その行が私の所ではたらくようにと願われ(発願)私に差し向けられる(回向)という意味。
  B即是其行=選択本願=第十八願
南无阿弥陀仏は阿弥陀仏の行がそのまま私の行となるように届けられる大慈悲心そのものであった。それは法蔵菩薩の願いのとおり私の上にはたらき続けてくださる智慧のはたらきであった。すべての行の徳を円かに具えた念仏行が私に差し向けられている。私の上に声となってあらわれてくださる。

2.私の立場から見た六字

宗祖の著書『尊号真像銘文』には私の側で味わう六字の解釈がほ どこされている。

  1. 「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命 はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと 申すことばなり、このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。
  2. 「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。

    @Aは「必ず救う、われにまかせよ」という勅命が具体的にはたらいているすがたを示す。
    帰命  = 「おまかせします」
    発願廻向= 「必ず浄土に生まれることができる」と思う
  3. 「言阿弥陀仏者」と申すは、「即是其行」となり、即是其行はこ れすなはち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり、安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこころなり。

    これは『行文類』と同じく選択本願。仏が選択して私に届けられ た大行(名号)は、口に称える称名念仏となって流れ出る。これはお浄土往きが正しく定まるおこないとなる。

<今日のまとめ>
帰命の信心は私の内側からおこるものではなく、阿弥陀仏のはたらきかけによって開発され、めぐまれるものである。


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第5講

機法一体

蓮如上人『御文章』3帖目7通
「しかれば南无の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに阿弥陀仏といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南无阿弥陀仏といへるはこのこころなり。」
『同』4帖目8通
「南无と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なる ところをさして、機法一体の南无阿弥陀仏とは申すなり」

 蓮如上人に影響のあった浄土宗の流れで白旗流(鎌倉)と一条流(京都)があった。

白旗流…
赤ん坊は寝たきりで無力であるが、泣いたら親が来る。
一条流…
3つ4つの子どもが広い庭で遊んでいて洞窟に落ちた。「お母ちゃん助けてくれ」と求めると、それを聞いた親が助けに来る。

蓮如上人の帰命

以下は平成10年度安居「機法一体」判決を参照。


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第6講

依経段 別讃 阿弥陀仏の願い

法蔵菩薩、因位の時、
世自在王仏の所に在して、

阿弥陀仏と釈尊

七祖の釈相  釈尊→阿弥陀仏の順
釈迦…此土における能説の教主
弥陀…彼土における所説の救主
宗祖の釈相  阿弥陀仏→釈尊の順
阿弥陀仏が法蔵を開いて凡小のために功徳の宝を施しつ つある具体相こそ、釈尊の出世と大経の説法である。
久遠実成阿弥陀仏
 五濁の凡愚をあはれみて
 釈迦牟尼仏としめしてぞ
 迦耶城には応現する(浄土和讃)

法蔵

梵語に曇摩迦留(Dharmakara)といふ。
翻訳すると「法宝蔵」(『平等覺經』)、作法(『荘厳経』)、法處(『如來會』)、法積(『大論』)、法蔵(『大経』)と翻訳される。
今正依の『大経』に依って釋名すれば、二義ある。

法とは、久遠の昔から實成された證をさす。
蔵とは隠覆の義。
即ち久遠實成の弥陀の内證を隠し、従果降因の菩薩の相を示すので法蔵という。

法とは十方衆生往生の法、
蔵とは舎蔵の義。
衆生済度の因果を菩薩の心中に舎蔵するが故に法蔵という。

 法蔵菩薩が世自在王仏のもとではじめて本願を建立したのではなく、法蔵菩薩の発願そのものが、すでに阿弥陀仏の慈悲の働き、活動相である。法蔵の原語Dharmakaraの意味は「法の根源」、「法の鉱脈」、「法を散布するもの」の意。

菩薩の原語bodhisattvaの意味は「道衆生」「覚有情」と訳されて、仏果(菩提)を求める有情の意。いずれも仏の名称として異質なものではない。

菩薩

菩薩とは、梵語にして具には菩提薩*(た)(『註』上三丁)と云 ふ。菩提を翻じて道と云ふ。薩*(た)を翻じて衆生と云ふ。即ち佛道 を求むる衆生と云ふことなり。

【註釈版聖典】補註
菩薩は梵語ボーディサットヴァ(bodhisattva)の音写、菩提薩*(た)を略した言葉で、悟りを求める者、すなわち求道者の意味で、最初期は、成仏される以前の釈尊を指す言葉であった(釈迦菩薩)。それが大乗仏教になると、在家・出家、男女を問わず、仏陀の悟 りを求めて修行するものをすべて菩薩と呼ぶようになったのである(凡夫の菩薩)。また、弥勒・普賢・文殊・観音などのもう一つの菩薩があって、これらの菩薩は、現にましまして衆生を教化しつつある菩薩(大菩薩)である。大乗仏教の菩薩はすべて願と行とを具えているといわれる。その願は、それぞれの菩薩によって異なる。それを象徴的に示したのが、普賢の行、観音の慈悲、文殊の智慧などである。しかしすべての菩薩に通じるものは、自ら悟りを完成する(自利)と同時に生きとし生けるものを救う(利他)という目標を持って、深い慈悲に根ざしているということである。
 このような願と行とを具する菩薩の典型的なものは、『大経』に説かれる法蔵菩薩である。『大経』には、過去無数劫(無限の過去)に一人の国王があり、出家して法蔵と名のり、世自在王仏の弟子となり、諸仏の浄土を見て五劫の間思惟し、一切衆生を平等に救おうとして四十八願をおこし、兆載永劫(無限の時間)の 修行を経て阿弥陀仏と成られたと説かれてある。因位の法蔵菩薩が願と行に報われて阿弥陀仏と成られたのてあり、このような仏陀を報身仏と呼ぶ。
 そのことから菩薩は、後には総合的に成仏道を歩む修行者という向上的な意味とともに、すでに仏となったものが、衆生救済のために菩薩のすがたをとるという向下的な意味を合せもつようになった。いわゆる菩薩道とはこのような意味を含むものである。
 阿弥陀仏の因位である法蔵菩薩についても、その発願・修行の結果阿弥陀仏と成ったと説かれているが、久遠実成の阿弥陀仏(無限の過去より、すでに仏であったところの阿弥陀仏、『浄土和讃』・『口伝妙』に出る)が、衆生救済のために菩薩の発願・修行のすがたを示されたのであるという見方もある。

従因至果と従果降因 〜菩薩の四義

  1. 釈尊を尊崇する敬称。さとりを開くべき有情。
  2. インドの高僧の敬称。
  3. 大乗仏教の十地
    菩薩の階位(菩薩瓔珞経)
    五十二位 六種性
    妙覚 妙覚性
    等覚 等覚性
    十地 聖種性 十聖
    十回向 道種性 内凡・三賢
    十行 性種性
    十住 習種性
    十信 外凡
  4. 従果降因の菩薩(法蔵菩薩はこれ)

因位時

正覚の果に対する発願修行はすべて因位であるが、ここではその初発心の時を指す。

世自在王仏

一に自利に約す。
一切法に於て自在を得たまへるが故に。世自在王
二に利他に約す。
世間を利益すること無碍自在。世饒王

師仏について発願する理由は、独善でないことをあかすことにあった


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第7講

ご讃題

諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、
無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。
五劫之を思惟して摂受す。重ねて誓ふらくは、名声十方に聞こえんと。

覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪

法蔵菩薩は仏がたの浄土の成り立ちや、その国土や人間や神々の善し悪しをご覧になる

覩見
覩は眼でみること。見は心でみること。
『無量寿経』
第三十一願
たとひわれ仏を得たらんに、国土清浄にして、みなことごとく十方一切の無量無数不可思議の諸仏世界を照見すること、なほ明鏡にその面像を覩るがごとくならん。もししからずは、正覚を取らじ。
第四十願
たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、意に随ひて十方無量の厳浄の仏土を見んと欲はん。時に応じて願のごとく、宝樹のなかにして、みなことごとく照見せんこと、なほ明鏡にその面像を覩るがごとくならん。もししからずは、正覚を取らじ。
諸仏浄土の因
諸仏がそれぞれ浄土を建立された因と、衆生がその浄土に往生する因と両方をご覧になった。
国土、人天、善悪
 国土は器世間。人天は衆生世間。仏・菩薩のこと。諸仏の浄土には、三賢・十聖・仏というように衆生各自の善悪の因に応じて、さとりの果にも種々の相があって平等ではない。いろんな人が雑居しているが、その国土を教化していく仏がいるので浄土という。一つの水を見ても、魚は住居と見、餓鬼は火と見、人は水、天人は瑠璃と見える。
 法蔵菩薩は諸仏の不平等の因果を選び捨て、平等の因果を摂取し、衆生の善悪をまるごと抱え込んで、平等・無分別の浄土に入らしめることを誓う。

建立無上殊勝願 超発希有大弘誓

この上ないすぐれた願をお建てになり、世にもまれな大いなる誓いを発された。

建立
諸仏の浄土に対して、阿弥陀仏独り創立された
無上
加えるものがなく、この上ないこと
殊勝願
特殊、最勝、本願
超発
過去現在未来の諸仏の本願に超絶する
希有
空前絶後
大弘誓
大の字は梵語では摩訶という。これに大・多・勝の三義がある。
大とは、広大なることで、全世界を尽くして善悪衆生をもらさずすくうこと。
多とは、おおいということで、利益が無量であること。
勝とは、すぐれているということ。
弘誓はひろい誓願という意。普く十方一切を救う本願なので弘誓という。

五劫思惟之摂受

五劫
大弘誓願はすぐにできたものではなかった。劫は時間の単位で、六丁一里の四十里四方の石を三年に一度天人が舞い降りて羽衣でなでて、石がなくなるのにかかる時間。
思惟
思はおもい案ずること、惟はおしはかること。五劫の間かかって諸仏国土の善悪を思惟分別して、選択摂取された、法蔵菩薩のお慈悲をあらわす。
超発希有大弘誓をさす
摂受
『大経』では摂取。おさめとるの意。『平等覚経』『大阿弥陀経』では選択。えらびすて、えらびとるの意

選択本願のようす

ここで、内容を整理してみると
覩見し、
五劫の発願修行をし、
選択して無上殊勝の願を発す
ということになる

 二百一十億の諸仏の国土の善悪を覩見し、その美しく妙なる様子を取るが、法蔵菩薩はその国土や修行を取らなかった。(「法蔵心中所欲の願」)例えば銀瓶の形を取って、金瓶を作るようだった。
 諸仏の美しく妙なる様子は自力でえるものであったのに対して、法蔵菩薩の国土・修行はすべて他力(仏力)で衆生が救済されるように建立していく。
 その本願成就の思惟と修行は、五劫とか兆載永劫といわれる途方もない時間を要した。仏の智慧をもってこの救済を実現するなら一瞬でできるはずであるが、これは一切衆生を救済することが、いかに難事であるかを知らせる時間であった。
 ただし、仏は全能だから五劫の思惟は必要ないように思われるが、これは違う。一切衆生が思惟すべきことを法蔵菩薩が代わって思惟されたものであるので、無用ではない。
 本願とは一応は四十八願、中を取れば真実五願(第十七願、第十八願、第十一願、第十二願、第十三願)、再往は第十八願。

重誓名声聞十方

重誓
法蔵菩薩は四十八願を誓った後、その中の第十七願「諸仏咨嗟之願」の内容を重ねて誓われる。『重誓偈』がそれである。
【第十七願】
たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。
【重誓偈】
われ超世の願を建つ、かならず無上道に至らん。
この願満足せずは、誓ひて正覚を成らじ。

われ無量劫において、大施主となりて、
あまねくもろもろの貧苦を済はずは、誓ひて正覚を成らじ。

われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。
究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。
『重誓偈』の三つの誓いがある。
第一誓は、発した願願が世に超えて成就しようと誓われた。
第二誓は、願成就すれば大施主となって諸々の貧苦を救うと誓われた。
第三誓は、それをどうやって回施するかを誓われた。
名声が諸仏に讃嘆され、十方に至ることによって過去現在未来のすべてのいきとしいける者すべてを救うことができる。必ず届けると誓われたのである。
名声
名は名号。名号は阿弥陀仏の口から出る声で、衆生の耳に届くように名のりをあげられた。
聞十方
十方は第十八願に誓われる十方のすべての衆生。聞こえた方は阿弥陀仏の名のり(名号)の功徳を頂いたことになる。

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第8講

ご讃題

  あまねく無量・無辺光、無碍・無対・光炎王、
  清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、
  超日月光を放ちて塵刹を照らす。一切の群生、光照を蒙る。

十二光の出拠

『讃阿弥陀仏偈』(曇鸞大師)[註釈版聖典七祖篇p.161]

●智慧の光明量るべからず。ゆゑに仏をまた無量光と号けたてまつる。
有量の諸相光暁を蒙る。このゆゑに真実明を稽首したてまつる。
●解脱の光輪限斉なし。ゆゑに仏をまた無辺光と号けたてまつる。
光触を蒙るもの有無を離る。このゆゑに平等覚を稽首したてまつる。
●光雲無礙にして虚空のごとし。ゆゑに仏をまた無礙光と号けたてまつる。
一切の有礙光沢を蒙る。このゆゑに難思議を頂礼したてまつる。
●清浄の光明対ぶものあることなし。ゆゑに仏をまた無対光と号けたてまつる。
この光に遇ふもの業繋除こる。このゆゑに畢竟依を稽首したてまつる。
●仏光照曜すること最第一なり。ゆゑに仏をまた光炎王と号けたてまつる。
三塗の黒闇光啓を蒙る。このゆゑに大応供を頂礼したてまつる。
●道光明朗にして、色超絶したまへり。ゆゑに仏をまた清浄光と号けたてまつる。
一たび光照を蒙れば、罪垢除こりてみな解脱を得。ゆゑに頂礼したてまつる。
●慈光はるかに被らしめ、安楽を施したまふ。ゆゑに仏をまた歓喜光と号けたてまつる。
光の至るところの処法喜を得。大安慰を稽首し頂礼したてまつる。
●仏光よく無明の闇を破す。ゆゑに仏をまた智慧光と号けたてまつる。
一切諸仏・三乗衆、ことごとくともに歎誉したまへり。ゆゑに稽首したてまつる。
●光明一切の時にあまねく照らす。ゆゑに仏をまた不断光と号けたてまつる。
光力を聞くがゆゑに、心断えずしてみな往生を得。ゆゑに頂礼したてまつる。
●その光仏を除きてはよく測るものなし。ゆゑに仏をまた難思議と号けたてまつる。
十方諸仏往生を歎じ、その功徳を称したまへり。ゆゑに稽首したてまつる。
●神光、相を離れたれば、名づくべからず。ゆゑに仏をまた無称光と号けたてまつる。
光によりて成仏したまへば、光赫然たり。諸仏の歎じたまふところなり。ゆゑに頂礼したてまつる。 ●光明照曜すること日月に過ぎたり。ゆゑに仏を超日月光と号けたてまつる。
釈迦仏歎じたまふもなほ尽きず。ゆゑにわれ無等等を稽首したてまつる。

類文

光明のあつかい

1.光明無量・寿命無量という場合[帰命無量寿如来とセット]
大慈悲の本源
(仏が私を「光明無量・寿命無量の仏に仕上げるぞ」と修行なさったおこころ)

2.光明と名号という場合[本願名号正定業とセット]
摂化の本源
(私をおさめとり、念仏の行者にそだてあげるはたらき)
(光号因縁については善導讃にて)

いちいちのひかり

普放
普遍。一切の徳を放つ。「照塵刹」に対応する。
無量
三世を貫徹して限りない
無辺
十方を照らして返際ない
無碍
内障『尊号真像銘文』
「さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。」
外障『弥陀如来名号徳』
「つぎに無碍光といふは、この日月のひかりは、ものをへだてつれば、そのひかりかよはず。この弥陀の御ひかりは、ものにさへられずしてよろづの有情を照らしたまふゆゑに、無碍光仏と申すなり。」
無対
無比対 諸仏の光(はたらき)に比類なきこと
無敵対 三垢を敵ともしないほどに消滅する
光炎王
火炎がさかんなること、諸仏中の王であること
cf.『大経』は「焔王光」光るものの中の王たる光明
「光炎王」は光るものの中の王
清浄
阿弥陀仏の光は貪りの無い善よりおこる
歓喜
阿弥陀仏の光は瞋りの無い善よりおこる
智慧
無明を破する
不断
たえることがない
難思
仏以外に思い考えて測ることができない
無称
光明のかたちを説示することができない
超日月
日や月の光と比較できないほど勝れている

無量 無辺 無碍 無対 光炎王 清浄 歓喜 智慧 不断 難思 無称 超日月


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第9講

ご讃題

本願名号正定業
至心信楽願為因
(本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願を因とす。)

【名号・行】第十七願

設我得仏 十方世界無量諸仏 不悉咨嗟称我名者 不取正覚
読み下し 「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ」
現代語訳 「わたしが仏になったとき、すべての世界の数限りない仏がたが、ことごとくわたしの名号をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開くまい」

【至心信楽の願・信】第十八願

設我得仏 十方衆生 至心信楽欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法
読み下し 「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れざれば正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法を除く」
現代語訳 「わたしが仏になったとき、あらゆる人々が、まことの心で信じ喜び、わたしの国に生まれると思って、たとえば十声念仏して、もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる」

【宗祖自身の釈】

『尊号真像銘文』(註釈版670)

「『本願名号正定業』といふは、選択本願の行といふなり。
『至心信楽願為因』といふは、弥陀如来回向の真実信心なり、この信心を阿耨菩提の因とすべしとなり。

【本願の名号】

「『聞其名号』といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。」(一念多念文意)
「至心廻向といふは至心は真実いふことばなり、真実は弥陀如来の御こころなり、回向は本願の名号をもて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり」(同)
「其有得聞彼仏名号といふは本願の名号を信ずべしと…」(同)
「すなはち選択本願の名号を一向専修なれとをしへたまふ御のりなり」(唯信鈔文意)

他にも用語例は「末灯鈔第11通・22通」「高僧和讃源信讃」がある

Q.本願は第十八願。名号は第十七願。
「本願の名号」という場合、第十八願に「名号」はないが、別ものだ ろうか?

〔正信偈摘解 利井鮮妙 師述によると〕
第十七願の名号は法体孤然たる名号に非ず。常に十八願中に至り届いてある名号なることを示す。喩へば月東山に出でゝ、影を吉水に宿すが如く、第十八機中に入りて三信十念と活動しつゝある名号なり。而も此名号は法体所行なり。行信次第の故なればなり。

〔正信偈講讃 稲城選恵 師述によると〕
本願のそのままこの私の上により先にはたらきかけているのが名号である。 〜 あたかも母親の乳の如く、所有権は母親にあり、母親のものではあるが、自らには一滴も用事はなく、全分愛児へのものである。愛児の食べねばならないものを自らが食べ、歯の一本もない愛児に飲めるようになっているのである。愛児の上では母親から与えられたそのままで、プラスするものも、マイナスするものもない。

【正定業】

出拠

善導大師『散善義』

「又正行について復二種あり、一には一心に弥陀の名号を専念して行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるものは是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」

法然上人『選択集』三選の文

「はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」

親鸞聖人『尊号真像銘文』『一念多念文意』にもある

先哲の三義

@正選定の業
法蔵菩薩が私を救うのに「念仏で往生させる」と選定された
A正決定の業因
仏の選択された名号を聞信するとき、まさしく報土の業因が決定する
B正定聚の人の作業
信心決定のうえで称名すること

Q.三義挙げたが、「本願名号正定業」の正定業はどれか?
次の至心信樂の句に望んで、ここは第十七願法体名号をあらわすところなので、第一義の仏選定の業因をあらわす。


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第10講

第十八願の願名

三心一心

約本

至心
真実心。仏の成就した行徳。真如にかなった清浄なる智慧
信楽
衆生を救うことにいささかの危ぶみもない、無疑
欲生
衆生を往生させずにはおられないという仏の願い。慈悲

智慧と慈悲の完成によって衆生をすくい取ることに何の疑いもないと いう仏の信楽が成立

約末

至心
 衆生には清浄真実の心はない(機無)
 だから阿弥陀如来は永劫に六度万行を修して真実心を成就せられ (円成)
 それを私ども悪業邪智の衆生に与えてくだされた(廻施)
 私どもの上で言う至心とは如来より与えられた真実心であるから、
 これをいただいた相をいえば信楽一心のほかはない(成一)
欲生
 衆生にはまことの大悲心はない(機無)
 だから阿弥陀如来は因位のとき功徳を与えたいという願心のもとに修行されて大悲心を成就され(円成)
 その大悲欲生心を私どもに与えて下された(廻施)
 私どもの上でいう欲生心は如来から与えられた大悲心であるから、いただいた相をいえば信楽一心のほかはない(成一)
信楽
疑蓋無雑

三重出体

【成等覚】

諸位を横ざまに超えて大利を満足する。
往生浄土し仏果に到ることが決定する故、
あるいは歓喜多き故、
あるいは極果に隣である故、
正定聚・歓喜地・便同弥勒という。
現生の益。

【証大涅槃】

摩訶般涅槃那。大滅度。
当益。

【必至滅度願】

 第十一願
設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚。
 第十一願成就文
其有衆生 生彼国者 皆悉住於 正定之聚 所以者何 彼仏国中 無諸邪聚 及不定聚。
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