しかれば大聖(釈尊)の真言に帰し、
大祖(七高僧)の解釈に閲して、
仏恩の深遠なるを信知して、
「正信念仏偈」を作りていはく、
無量寿如来に帰命し、
不可思議光に南无したてまつる。
【浄土真宗聖典註釈版202頁】
そこで、釈尊のまことの教えにしたがい、また浄土の祖師方の書かれたものを拝読して、仏の恩の深いことを信じ喜んで、次のように「正信念仏偈」を作った。
限りない命の如来に帰命し、思いはかることのできない光の如来に帰依したてまつる。
著者 親鸞聖人
出典 『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』の『行文類』
依経段 | 総讃 | 帰命無量寿如来 南無不可思議光 | |
別讃 | 阿弥陀仏の願い | 法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所 覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓 五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方 普放無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照 本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就 |
|
お釈迦様の勧め | 如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言 能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味 摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇 獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣 一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華 弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯 |
||
依釈段 | 総讃 | 印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機 |
|
別讃 | 龍樹章 | 釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見 宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽 顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽 憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩 |
|
天親章 | 天親菩薩造論説 帰命無碍光如来 依修多羅顕真実 光闡横超大誓願 広由本願力回向 為度群生彰一心 帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数 得至蓮華蔵世界 即証真如法性身 遊煩悩林現神通 入生死園示応化 |
||
曇鸞章 | 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦 天親菩薩論註解 報土因果顕誓願 往還回向由他力 正定之因唯信心 惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 必至無量光明土 諸有衆生皆普化 |
||
道綽章 | 道綽決聖道難証 唯明浄土可通入 万善自力貶勤修 円満徳号勧専称 三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引 一生造悪値弘誓 至安養界証妙果 |
||
善導章 | 善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁 開入本願大智海 行者正受金剛心 慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽 |
||
源信章 | 源信広開一代教 偏帰安養勧一切 専雑執心判浅深 報化二土正弁立 極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我 |
||
源空章 | 本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 真宗教証興片州 選択本願弘悪世 還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入 |
||
総結勧信 | 弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪 道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説 |
存覚上人『六要鈔』(真聖全2-266)
問。「正信偈」とは是何の義ぞや。答。「正」とは傍に対し邪に対し雑に対す。「信」とは疑に対す。今は是行に対す。所行法に就いて能信の名を挙ぐ。
宗教の3つのパターン
親鸞聖人の著書は | アインシュタイン | |||
正 | 真実 | 顕浄土真実教文類 顕浄土真実行文類 顕浄土真実信文類 顕浄土真実証文類 顕浄土真仏土文類 |
第十七願 第十八願 第十一願 第十二・十三願 |
宇宙の宗教 |
傍 | 権仮 | 顕浄土方便化身土文類本 | 第十九願・二十願 聖道門 |
道徳の宗教 |
邪 雑 |
邪偽 | 顕浄土方便化身土文類末 | 邪偽 外道 |
恐怖の宗教 |
「念仏」の意味を考えると、法体・心念・口称の3つが挙げられます。
行 | 第十七願 | 我名 | 所行 |
信 | 第十八願 | 三信 | 能信 |
法体回施に約す
行信の場合は「仏さまから南无阿弥陀仏が届く様子」を明らかにします。行は仏さまのはたらきのことで、大行といいます。お釈迦さまをはじめたくさんの仏さまがたが、南无阿弥陀仏の名を誉め讃えます。この声が私に届けられていることを顕しています。
信 | 第十八願 | 三信 | 能信 |
行 | 第十七願 | 十念 | 能行 |
衆生の機受に約す
信行の場合は「届いた南无阿弥陀仏が私の上に現れる様子」を明らかにします。何ものにも障げられずに私の心の根底に届いた南无阿弥陀仏が、私の往生のたねになり、口に一声一声あふれでてくる様子です。
この「正信念仏偈」の念仏は、信の後にありますので、私たちが 口に称えることで、報恩感謝のおもいが口に現れたものです。
問い お念仏をしたり、お経を読んだりすることで仏やご先祖様がよろこぶと思いますか?
答え 『蓮如上人御一代記聞書』本
(11)
一、十月二十八日の逮夜にのたまはく、『正信偈』・『和讃』をよみて、仏にも聖人(親鸞)にもまゐらせんとおもふか、あさまし や。他宗にはつとめをもして回向するなり、御一流には他力信心 をよくしれとおぼしめして、聖人の『和讃』にそのこころをあそばされたり。ことに七高祖の御ねんごろなる御釈のこころを、『和讃』にききつくるやうにあそばされて、その恩をよくよく存知し て、あらたふとやと念仏するは、仏恩の御ことを聖人の御前にてよろこびまうすこころなりと、くれぐれ仰せられ候ひき。
(32)
一、のたまはく、朝夕、『正信偈』・『和讃』にて念仏申すは、往生のたねになるべきかなるまじきかと、おのおの坊主に御たづねあり。皆申されけるは、往生のたねになるべしと申したる人もあり、往生のたねにはなるまじきといふ人もありけるとき、仰せに、いづれもわろし、『正信偈』・『和讃』は、衆生の弥陀如来を一念にたのみまゐらせて、後生たすかりまうせとのことわりをあそばされたり。よくききわけて信をとりて、ありがたやありがたやと聖人(親鸞)の御前にてよろこぶことなりと、くれぐれ仰せ候ふなり。
無量寿如来に帰命し、
不可思議光に南无したてまつる。
正信偈はこの2句に摂まります。
両句ともに「南无阿弥陀仏」と同じ意味です。
原語 | ナモ | アミターユス アミターバ |
ブッダ |
---|---|---|---|
音写 | 南无 | 阿弥陀 | 仏 |
訳語 | 帰命 南无 |
無量寿 不可思議光 |
如来 |
「人生のすべてを阿弥陀さまにおまかせします」
宗祖自身のお気持ちであり、また私たちに勧める姿でもあります
帰命無量寿如来は善導大師『玄義分』
「南无阿彌陀佛者又是西國正音〈乃至〉故言歸命無量壽覺」覚の字を如来に換えてあるのは、7字に整えるためです。
「南无不可思議光、一心帰命稽首礼」による。
1 英訳
nam = to bend or bow, subject or submit one's self.
namas = bow, obeisance, adoration.
(M.William "Sanskrt-English Dictionary")
2 浄土諸流とのちがい
『三部仮名鈔』『帰命本願章』
「南无といふは即ちこれ帰命とのたまへるも南无といふはたすけたまへといふことばと釈するなり。……しかれば南无阿弥陀仏ととなふるはたすけたまへ阿弥陀仏といふことばなり」
『竹林鈔』(顕意著)巻上
「命を帰すとは何なる義ぞや、答う、たとえば流を源に帰せんが如し、一切衆生曠劫流転の生死無常の命は本よりこれ諸仏の果徳、涅槃常住の無量寿なり。しかるを仏は衆生の命は即ち無量寿なりと覚て、帰するものあれば摂取して捨てず。親く近く碍りなき智願力を成就し給へり。衆生は自ら迷倒して願力の無碍道を知らず、無量寿の外に我らが命ありと思て、徒らに生じ、徒らに死して、曠劫に流転して苦海に沈む。
今釈尊の遺教に値ひ、弥陀の願意を聞く時、日来の迷を捨てて、仏智の覚に帰すれば命を無量寿に帰すともいふなり。迷を翻して本家に帰るとも説くなり、……」
1 無量寿経 第十二願・第十三願
(12) たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ。2 阿弥陀経
(13) たとひわれ仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下、百千億那由他劫に至らば、正覚を取らじ。
『阿弥陀経』名義段(註釈版123)異訳の玄奘訳『称讃浄土経』も同様に「無量寿」「無量光」の訳
「舎利弗、なんぢが意においていかん、かの仏をなんのゆゑぞ阿弥陀と号する。舎利弗、かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障碍するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす。また舎利弗、かの仏の寿命およびその人民〔の寿命〕も無量無辺阿僧祇劫なり。ゆゑに阿弥陀と名づく。舎利弗、阿弥陀仏は、成仏よりこのかたいまに十劫なり。」
3 宗祖の受け止めかた
天親菩薩は『願生偈』に阿弥陀経の釈を承けて「帰命尽十方無碍光如来」と釈される。また、善導大師は『往生礼讃』にこの名義段と『観経』の「念仏衆生摂取不捨」を合わせて釈される。
宗祖はこれを承けて『浄土和讃』「阿弥陀経讃」に
「十方微塵世界のといわれる。
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる」(註釈版571)
「ひとたびとりてながくすてぬなり、せふはもののにぐるをおわえとるなり、せふはおさめとる、しゆはむかえとる」とある。このように阿弥陀仏の光明と寿命はそのまま衆生にはたらきかけられてある。
尽十方無碍光如来といわれるように、阿弥陀仏は超越的に彼方にあるのではなく、衆生が求めるより先に既に与えられている。
善導大師のおられた中国浄土教の中心は『観無量寿経』であった。 その理解の仕方が善導大師は他の諸師と異なっていた。
『観経』下下品には、一生涯悪を造ってきた者が、臨終に十声の称名念仏によって浄土に往生すると説かれてある。中国浄土教の主な流派の「摂論学派」では、この称名念仏は「浄土に生まれたい」という願望を口にしただけの意味しかなく、浄土に生まれさせるだけの力やはたらきを具えていないと理解した。唯願無行 であって称名念仏一行の往生を否定した。これに対する反論が善導大師の六字釈(南无阿弥陀仏の解釈)であった。
『観経疏』玄義分
「今この観経の中の十声の称仏は、即ち十願十行有りて具足す。いかんが具足する。南无と言うは即ち帰命なり。亦是発願廻向の義なり。阿弥陀仏と言うは即ち是其の行なり。斯の義を以ての故に必ず往生を得と。」
南无 | 阿弥陀仏 |
帰命 | |
発願廻向 | 行 |
称名念仏に願行具足を明らかにされたのではなく、あえて名号について願行具足を明らかにされた。(これが後に絶対他力の法門を確立していくきっかけとなっていく。)
善導大師は二字と四字に分けて解釈されたが、宗祖は南无阿弥陀 仏の六字全体を@帰命A発願廻向B即是其行と解釈された。
『行文類』六字釈
「しかれば、南无之言は帰命なり。……中略……是を以て帰命は本願招喚の勅命なり。………@
発願廻向というは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまうの心なり。………A
即是其行というは、即ち選択本願是なり。………B」
宗祖の著書『尊号真像銘文』には私の側で味わう六字の解釈がほ どこされている。
<今日のまとめ>
帰命の信心は私の内側からおこるものではなく、阿弥陀仏のはたらきかけによって開発され、めぐまれるものである。
蓮如上人『御文章』3帖目7通
「しかれば南无の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに阿弥陀仏といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南无阿弥陀仏といへるはこのこころなり。」
『同』4帖目8通
「南无と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なる ところをさして、機法一体の南无阿弥陀仏とは申すなり」
蓮如上人に影響のあった浄土宗の流れで白旗流(鎌倉)と一条流(京都)があった。
以下は平成10年度安居「機法一体」判決を参照。
法蔵菩薩、因位の時、
世自在王仏の所に在して、
久遠実成阿弥陀仏
五濁の凡愚をあはれみて
釈迦牟尼仏としめしてぞ
迦耶城には応現する(浄土和讃)
梵語に曇摩迦留(Dharmakara)といふ。
翻訳すると「法宝蔵」(『平等覺經』)、作法(『荘厳経』)、法處(『如來會』)、法積(『大論』)、法蔵(『大経』)と翻訳される。
今正依の『大経』に依って釋名すれば、二義ある。
一
法とは、久遠の昔から實成された證をさす。
蔵とは隠覆の義。
即ち久遠實成の弥陀の内證を隠し、従果降因の菩薩の相を示すので法蔵という。
二
法とは十方衆生往生の法、
蔵とは舎蔵の義。
衆生済度の因果を菩薩の心中に舎蔵するが故に法蔵という。
法蔵菩薩が世自在王仏のもとではじめて本願を建立したのではなく、法蔵菩薩の発願そのものが、すでに阿弥陀仏の慈悲の働き、活動相である。法蔵の原語Dharmakaraの意味は「法の根源」、「法の鉱脈」、「法を散布するもの」の意。
菩薩の原語bodhisattvaの意味は「道衆生」「覚有情」と訳されて、仏果(菩提)を求める有情の意。いずれも仏の名称として異質なものではない。
菩薩とは、梵語にして具には菩提薩*(た)(『註』上三丁)と云 ふ。菩提を翻じて道と云ふ。薩*(た)を翻じて衆生と云ふ。即ち佛道 を求むる衆生と云ふことなり。
【註釈版聖典】補註
菩薩は梵語ボーディサットヴァ(bodhisattva)の音写、菩提薩*(た)を略した言葉で、悟りを求める者、すなわち求道者の意味で、最初期は、成仏される以前の釈尊を指す言葉であった(釈迦菩薩)。それが大乗仏教になると、在家・出家、男女を問わず、仏陀の悟 りを求めて修行するものをすべて菩薩と呼ぶようになったのである(凡夫の菩薩)。また、弥勒・普賢・文殊・観音などのもう一つの菩薩があって、これらの菩薩は、現にましまして衆生を教化しつつある菩薩(大菩薩)である。大乗仏教の菩薩はすべて願と行とを具えているといわれる。その願は、それぞれの菩薩によって異なる。それを象徴的に示したのが、普賢の行、観音の慈悲、文殊の智慧などである。しかしすべての菩薩に通じるものは、自ら悟りを完成する(自利)と同時に生きとし生けるものを救う(利他)という目標を持って、深い慈悲に根ざしているということである。
このような願と行とを具する菩薩の典型的なものは、『大経』に説かれる法蔵菩薩である。『大経』には、過去無数劫(無限の過去)に一人の国王があり、出家して法蔵と名のり、世自在王仏の弟子となり、諸仏の浄土を見て五劫の間思惟し、一切衆生を平等に救おうとして四十八願をおこし、兆載永劫(無限の時間)の 修行を経て阿弥陀仏と成られたと説かれてある。因位の法蔵菩薩が願と行に報われて阿弥陀仏と成られたのてあり、このような仏陀を報身仏と呼ぶ。
そのことから菩薩は、後には総合的に成仏道を歩む修行者という向上的な意味とともに、すでに仏となったものが、衆生救済のために菩薩のすがたをとるという向下的な意味を合せもつようになった。いわゆる菩薩道とはこのような意味を含むものである。
阿弥陀仏の因位である法蔵菩薩についても、その発願・修行の結果阿弥陀仏と成ったと説かれているが、久遠実成の阿弥陀仏(無限の過去より、すでに仏であったところの阿弥陀仏、『浄土和讃』・『口伝妙』に出る)が、衆生救済のために菩薩の発願・修行のすがたを示されたのであるという見方もある。
五十二位 | 六種性 | |
---|---|---|
妙覚 | 妙覚性 | |
等覚 | 等覚性 | |
十地 | 聖種性 | 十聖 |
十回向 | 道種性 | 内凡・三賢 |
十行 | 性種性 | |
十住 | 習種性 | |
十信 | 外凡 |
正覚の果に対する発願修行はすべて因位であるが、ここではその初発心の時を指す。
一に自利に約す。
一切法に於て自在を得たまへるが故に。世自在王
二に利他に約す。
世間を利益すること無碍自在。世饒王
師仏について発願する理由は、独善でないことをあかすことにあった
諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、
無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。
五劫之を思惟して摂受す。重ねて誓ふらくは、名声十方に聞こえんと。
法蔵菩薩は仏がたの浄土の成り立ちや、その国土や人間や神々の善し悪しをご覧になる
『無量寿経』
第三十一願
たとひわれ仏を得たらんに、国土清浄にして、みなことごとく十方一切の無量無数不可思議の諸仏世界を照見すること、なほ明鏡にその面像を覩るがごとくならん。もししからずは、正覚を取らじ。
第四十願
たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、意に随ひて十方無量の厳浄の仏土を見んと欲はん。時に応じて願のごとく、宝樹のなかにして、みなことごとく照見せんこと、なほ明鏡にその面像を覩るがごとくならん。もししからずは、正覚を取らじ。
この上ないすぐれた願をお建てになり、世にもまれな大いなる誓いを発された。
ここで、内容を整理してみると
覩見し、
五劫の発願修行をし、
選択して無上殊勝の願を発す
ということになる
二百一十億の諸仏の国土の善悪を覩見し、その美しく妙なる様子を取るが、法蔵菩薩はその国土や修行を取らなかった。(「法蔵心中所欲の願」)例えば銀瓶の形を取って、金瓶を作るようだった。
諸仏の美しく妙なる様子は自力でえるものであったのに対して、法蔵菩薩の国土・修行はすべて他力(仏力)で衆生が救済されるように建立していく。
その本願成就の思惟と修行は、五劫とか兆載永劫といわれる途方もない時間を要した。仏の智慧をもってこの救済を実現するなら一瞬でできるはずであるが、これは一切衆生を救済することが、いかに難事であるかを知らせる時間であった。
ただし、仏は全能だから五劫の思惟は必要ないように思われるが、これは違う。一切衆生が思惟すべきことを法蔵菩薩が代わって思惟されたものであるので、無用ではない。
本願とは一応は四十八願、中を取れば真実五願(第十七願、第十八願、第十一願、第十二願、第十三願)、再往は第十八願。
【第十七願】
たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。
【重誓偈】『重誓偈』の三つの誓いがある。
われ超世の願を建つ、かならず無上道に至らん。
この願満足せずは、誓ひて正覚を成らじ。
われ無量劫において、大施主となりて、
あまねくもろもろの貧苦を済はずは、誓ひて正覚を成らじ。
われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。
究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。
あまねく無量・無辺光、無碍・無対・光炎王、
清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、
超日月光を放ちて塵刹を照らす。一切の群生、光照を蒙る。
『讃阿弥陀仏偈』(曇鸞大師)[註釈版聖典七祖篇p.161]
●智慧の光明量るべからず。ゆゑに仏をまた無量光と号けたてまつる。
有量の諸相光暁を蒙る。このゆゑに真実明を稽首したてまつる。
●解脱の光輪限斉なし。ゆゑに仏をまた無辺光と号けたてまつる。
光触を蒙るもの有無を離る。このゆゑに平等覚を稽首したてまつる。
●光雲無礙にして虚空のごとし。ゆゑに仏をまた無礙光と号けたてまつる。
一切の有礙光沢を蒙る。このゆゑに難思議を頂礼したてまつる。
●清浄の光明対ぶものあることなし。ゆゑに仏をまた無対光と号けたてまつる。
この光に遇ふもの業繋除こる。このゆゑに畢竟依を稽首したてまつる。
●仏光照曜すること最第一なり。ゆゑに仏をまた光炎王と号けたてまつる。
三塗の黒闇光啓を蒙る。このゆゑに大応供を頂礼したてまつる。
●道光明朗にして、色超絶したまへり。ゆゑに仏をまた清浄光と号けたてまつる。
一たび光照を蒙れば、罪垢除こりてみな解脱を得。ゆゑに頂礼したてまつる。
●慈光はるかに被らしめ、安楽を施したまふ。ゆゑに仏をまた歓喜光と号けたてまつる。
光の至るところの処法喜を得。大安慰を稽首し頂礼したてまつる。
●仏光よく無明の闇を破す。ゆゑに仏をまた智慧光と号けたてまつる。
一切諸仏・三乗衆、ことごとくともに歎誉したまへり。ゆゑに稽首したてまつる。
●光明一切の時にあまねく照らす。ゆゑに仏をまた不断光と号けたてまつる。
光力を聞くがゆゑに、心断えずしてみな往生を得。ゆゑに頂礼したてまつる。
●その光仏を除きてはよく測るものなし。ゆゑに仏をまた難思議と号けたてまつる。
十方諸仏往生を歎じ、その功徳を称したまへり。ゆゑに稽首したてまつる。
●神光、相を離れたれば、名づくべからず。ゆゑに仏をまた無称光と号けたてまつる。
光によりて成仏したまへば、光赫然たり。諸仏の歎じたまふところなり。ゆゑに頂礼したてまつる。 ●光明照曜すること日月に過ぎたり。ゆゑに仏を超日月光と号けたてまつる。
釈迦仏歎じたまふもなほ尽きず。ゆゑにわれ無等等を稽首したてまつる。
類文
無量光・無辺光・無著光・無碍光・光照王・瑞厳光・愛光・喜光・可観光・不思議光・無等光・不可称光・映蔽日光・掩奪日月光
無量光・無碍光・常照光・不空光・利益光・愛楽光・安穏光・解脱光・無等光・不思議光・過日月光・奪一切世間光・無垢清浄光
無量光明・無量光耀・無辺光・無着光・無碍光・常放光・有天珠光・無碍照王光・可悦光・可愛光・可喜光・可観光・可喜足光・不可制止光・不思議光・無等光・超人是三発王光・超勝掩奪日月光・超勝掩奪 護無鑠羯梵羅門浄居大自在一切天光
無量光・無量照・無対光・無着光・無碍光・常照光・天珠光・無碍光明王光・成愛光・歓喜光・最勝歓喜光・勇躍光・可見光・和合光・不可思議光・無碍光・威圧人王天王光・威圧日月令暗昧光・威圧四天・ 因陀羅・梵天・浄居大自在・諸天・令暗昧光
1.光明無量・寿命無量という場合[帰命無量寿如来とセット]
大慈悲の本源
(仏が私を「光明無量・寿命無量の仏に仕上げるぞ」と修行なさったおこころ)
2.光明と名号という場合[本願名号正定業とセット]
摂化の本源
(私をおさめとり、念仏の行者にそだてあげるはたらき)
(光号因縁については善導讃にて)
無量 | 無辺 | 無碍 | 無対 | 光炎王 | 清浄 | 歓喜 | 智慧 | 不断 | 難思 | 無称 | 超日月 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
体 | 相 | ||||||||||
総 | 別 | ||||||||||
竪 | 横 | 竪 | |||||||||
智 | 悲 | 智 | 悲 | 智 | 悲 | ||||||
直 | 譬 |
本願名号正定業
至心信楽願為因
(本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願を因とす。)
『尊号真像銘文』(註釈版670)
「『本願名号正定業』といふは、選択本願の行といふなり。
『至心信楽願為因』といふは、弥陀如来回向の真実信心なり、この信心を阿耨菩提の因とすべしとなり。
「『聞其名号』といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。」(一念多念文意)
「至心廻向といふは至心は真実いふことばなり、真実は弥陀如来の御こころなり、回向は本願の名号をもて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり」(同)
「其有得聞彼仏名号といふは本願の名号を信ずべしと…」(同)
「すなはち選択本願の名号を一向専修なれとをしへたまふ御のりなり」(唯信鈔文意)
他にも用語例は「末灯鈔第11通・22通」「高僧和讃源信讃」がある
Q.本願は第十八願。名号は第十七願。
「本願の名号」という場合、第十八願に「名号」はないが、別ものだ ろうか?
〔正信偈摘解 利井鮮妙 師述によると〕
第十七願の名号は法体孤然たる名号に非ず。常に十八願中に至り届いてある名号なることを示す。喩へば月東山に出でゝ、影を吉水に宿すが如く、第十八機中に入りて三信十念と活動しつゝある名号なり。而も此名号は法体所行なり。行信次第の故なればなり。
〔正信偈講讃 稲城選恵 師述によると〕
本願のそのままこの私の上により先にはたらきかけているのが名号である。 〜 あたかも母親の乳の如く、所有権は母親にあり、母親のものではあるが、自らには一滴も用事はなく、全分愛児へのものである。愛児の食べねばならないものを自らが食べ、歯の一本もない愛児に飲めるようになっているのである。愛児の上では母親から与えられたそのままで、プラスするものも、マイナスするものもない。
出拠
善導大師『散善義』
「又正行について復二種あり、一には一心に弥陀の名号を専念して行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるものは是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」
法然上人『選択集』三選の文
「はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」
親鸞聖人『尊号真像銘文』『一念多念文意』にもある
Q.三義挙げたが、「本願名号正定業」の正定業はどれか?
次の至心信樂の句に望んで、ここは第十七願法体名号をあらわすところなので、第一義の仏選定の業因をあらわす。
智慧と慈悲の完成によって衆生をすくい取ることに何の疑いもないと いう仏の信楽が成立