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発遣招喚

平成24年

〔題意〕

「散善義」回向発願心釈の二河譬に説かれている発遣と招喚の関係について窺い、発遣の意は、要門を廃して弘願の法を勧めることであって、二尊一致して、弘願の法を勧められていることを明らかにする。

〔出拠〕

「玄義分」の序題門には、

「仰いでおもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎す。かしこに喚びここに遣はす、あに去かざるべけんや」(『真聖全』一 ・四四三)
とあり、「散善義」の回向発願心釈には、
「仰いで釈迦発遣して指へて叫方に向へたまふことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命已後かの国に生るることを得て、仏とあひ見えて慶喜することなんぞ極まらんと喩ふるなり」(『真聖全一・五四一)
とある。また、『浄土文類聚鈔』には、
「仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚によりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」(『真聖全』二・四五二、『聖典全書』二・二七四)
とある。

〔釈名〕

「発遣招喚」の語は、「玄義分」序題門の文、及び「散善義」回向発願心釈の「釈迦発遣して指へて西方に向へたまふ」「弥陀の悲心招 喚したまふ」等に拠る。このうち、「発遣」とは、釈尊が阿弥陀仏の願力の道を行けと勧め遣わす意であり、釈尊の教法である。また、「招 喚」とは、阿弥陀仏が浄土に来たれと招き喚ぶ意であり、本願招喚の勅命である。

〔義相〕

 「玄義分」の序題門(『真聖全』一 ・四四三)には、「娑婆の化主その請によるがゆゑに、すなはち広く浄土の要門を開く、安楽の能人 は別意の弘願を顕彰す」とあり、二尊二教の意であるが、続いて、「阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざることなし」との経意を示 して、阿弥陀仏の弘願他力による往生を明らかにし、「仰いでおもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎す。 かしこに喚びここに遣はす、あに去かざるべけんや」と述べて、発遣・招喚を説いていることから、釈迦・弥陀二尊は、一致して弘願の法を勧めていると窺う。
 その意を二河譬から窺うに、それは、先の「玄義分」の序題門並びに「散善義」の回向発願心の第二釈を受けて、広く喩顕されたものである。すなわち、「散善義」には、「また回向発願して生ぜむと願ずる者は、必ず須く決定真実心の中に回向し願じて、得生の想を作すべし。此の心深信せること金剛のごとくなるに由りて」(『原典版』七祖篇・五二六)とあり、「信文類」では、「また回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須ゐて得生の想をなせ」(『真聖全』二・五四、『聖典全書』二・七四)と示して、回向発願心は、深心の義別であり、弘願の信相をあらわしたものであると明らかにされる。したがって、二河譬は、総じては三心、別しては深心の相を喩顕するものである。
 また、譬喩の文のはじめには、「いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もって外邪異見の難を防がん」(『真聖全』一・五三九)とあり、合法の文の終わりには、「仰いで釈迦発遣して指へて西方に向へたまふことを蒙り、また弥陀の悲心をもって招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて」とある。したがって、釈尊の発遣は、弥陀の招喚と同じく、弘願の法を勧められるのであり、また、異学・異見・別解・別行の人等に惑わされない金剛不壊の信相を示すものであって、仮に通じる義はない。
 この他、『大経』の流通分には、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり」(『真聖全』一・四六)とある。すなわち、出世本懐の経である『大経』は、本願名号のはたらきによって大利を得ると開示しているので、釈尊の発遣は弥陀の招喚と一致する。また、『観経』の華座観においても、釈尊は「除苦悩法」(『真聖全』一・五四)と説いて黙し、応声即現に譲られていることから、要門の法を廃して弘願の法をあらわしていると窺う。
 宗祖は、「散善義」の第五深信について、『愚禿鈔』に註釈を施し、利他信心をあらわすものであるとし、三随順をもって、真仏弟子であると示される。すなわち、『観経』所説の釈尊の教と『小経』所説の諸仏の意に随順することは、『大経』所説の弥陀の本願に随順するものであると示し、三経一致して、弘願他力の法を説き勧めていると明らかにされるのである。


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